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2014年7月6日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2014年7月6日  使徒言行録13:1-12 「使徒たちの旅路」        

◆ 使徒言行録13章に記されている出来事は、アンティオキアの教会が舞台になっています。アンティオキアの教会は実にさまざまな民族、さまざまな政治的・文化的背景をもった人たち、言葉もそれぞれに違う人たちによって構成され、支えられていた教会でした。ですから、この教会は、それぞれの違いのゆえに、一つになることが難しい教会だったのではないかと思います。一方、エルサレムの教会はユダヤ人で構成されていましたから、まとまりやすかったはずだと思います。しかしその後の歴史の中で、盛んに活動して行くのはアンティオキアの教会なのです。

◆ エルサレムの教会は、白い布にたとえることができます。白い布はとてもきれいです。しかし、もし少しでもシミが付けば、目立ちますし、シミの部分から変色して漂白できなければ、その布は捨てられてしまいます。エルサレムの教会が白い布だとすれば、アンティオキアの教会はパッチワークに譬えられるかもしれません。パッチワークというのは、いろいろな素材、いろいろな形、いろいろな色の端切れをつないで作られます。そして一つ一つの違いがそのまま生かされて、美しさと魅力が生み出されます。そして何よりもパッチワークは、一つのシミがあっても、あるいは後からシミが付いても、それが全体を生かす要素のひとつになります。変色した布の端切れでもいっこうに構わないのです。アンティオキアの教会は、おそらくそのような教会でした。そこには多様性がありました。ですからみんなが平均化するという形で一つにまとまるということはなかったでしょう。逆に意見の対立もあらわになることもあったはずです。

◆ そのような状況がアンティオキアの教会の人たちに何をもたらしたのか。それは多様性を無理に押さえ込んで一つにまとまろうと苦労するということではなく、その多様性を外に出て行くツールとして生かそうと考えることでした。外に向かって何かをしていこう、働きかけて行こうとすることがアンティオキアの教会の特色となっていくのです。つぎはぎだらけで、実にあぶなっかしい教会だからこそ、この教会に集っていた人たちは、どうすべきか一生懸命に考えたのだと思います。それぞれの素材が、自分たちを互いにつなぎ合わせていてくれる糸のことを思わなければパッチワークは成り立ちません。アンティオキアの教会の人たちにとってその糸がイエス・キリストであったのです。

◆ 教会はシミのない白い布となる必要はありません。教会は人間の苦悩とか喜びとか、そのようないろいろな人生の出来事が持ち込まれて、それがキリストという糸でつながれていく所なのではないか。自分にはない色を、他の人に出してもらって、予期せぬ模様が出来上がって行くのです。

◆ 本井康博先生が、ご自身の「八重本」の最終巻、7冊目として出版された「襄のライフは私のライフ」を読ませていただきました。そして思いました.同志社という学園は本当にいろいろな人たちの思いや願いや働きが、イエス・キリストという糸でパッチワークのようにつなぎ合わされて生み出されたということ。そしてそうであるがゆえに創立期の尋常ではない労苦と幾度もの危機を味わいながら、しかし外に向かって広がり、あらたなパッチワークを作り、139年の歴史を刻み得ているのだ、と思いました。

◆ この本の中で熊本バンドと同志社とのつながりについて書いて下さっています。開校当初、寺子屋に毛が生えた程度に過ぎなかったといわれる同志社英学校が、学校としての確かな基礎を作りえたのは、熊本洋学校の廃校によって、京都の開校後まだ間もない英学校に転校生、あるいはすでに熊本洋学校を卒業していたので、同志社英学校にあらためて入学して来た人たち、後に熊本バンドと呼ばれるようになった人たちに拠っていることは、大河ドラマ「八重の桜」でも描かれていた通りです。
この熊本からの新入生たちについてこう書いておられます。「『熊本バンド』のメンバーは多士済々です。オーバーにいえば、バラバラです。・・・・バンド内部の区別で大事なのは、何と言っても洋学校卒業クラスです。『バンドの中のバンド』と言ってもいいでしょうね。エリート集団ですから。人数でいうと十数名になります。大河ドラマに顔を出す人物に絞れば、小崎弘道や伊勢(横井)時雄、金森通倫、海老名弾正、市原盛宏(もりひろ)です。・・・彼らは、信仰も英語力も学力も相当なものですから、受け入れた同志社は、彼らのために特別クラス、「余科」を新設します。宣教師たちは、これを『バイブルクラス』と呼びます。要するにカレッジレベルの神学科です。」 しかし熊本からの新入生たちは、同志社の実態に呆れ果て失望します。彼らが京都にある英学校だからと期待を膨らませて入学した同志社は、金森通倫の記述によれば「定まった課程もなく、ただ宣教師がやって来て、英語を教えている位。昔の漢学塾を英学塾に替えた位で、規律もなく、また規則もなかった」というのが実態だったからです。彼らの失望と不満は、この状況に有効な手だてを為そうとしているようには見えなかった校長の新島にも向けられました。そして一旦は総退学を決意するのですが、「退学する前に、ジェーンズからも意見を聞いてみる」ことにしました。

◆ リロイ・ランシング・ジェーンズという人物は、熊本洋学校で彼らを教え、宗教的にも大きな感化を与えた恩師であり、彼らが厚い信頼を寄せ続けていた人です。ジェーンズはオランダ改革派に属する信徒でした。アメリカ陸軍の軍人で、退役後、熊本洋学校に教員として赴任しました。熊本バンドの面々が「総退学」の意志を固めていたとき、ジェーンズはたまたま大阪の学校に勤務していました。彼らに是非にと請われて京都にやって来たジェーンズは、口々に同志社への不平と苦情を訴える彼らに反論し、1時間かけて説得を試みました。その時ジェーンズはこう説得したというのです。
「自分は同志社が完全な学校だと思って、諸君を京都に寄越(よこ)したわけではない。新島やデイヴィスらスタッフを信じたからである。諸君は各々、同志社を自分の学校だと思えばいいではないか」。「改革しだいでこれからいかようにもなるわけだから、自分の学校と思えばいい。何も人に頼るに及ばない。そんなことでは、私の本意に反する」。
「自ら改革の努力も何もしないで、いきなり辞めるとは何事か。辞めたければ、旅費を出すから、皆、熊本へすぐ帰れ!」。
 ジェーンズの説得は功を奏し、去る者はひとりもいませんでした。続けてこう記しておられます。「この時こそ、その後の同志社の発展が、なかば約束されたような瞬間です。後に新島が、ジェーンズに『あなたが同志社を救ってくれた』と礼を述べた、というのも、もっともです。」
 同志社英学校の開設とその後の歩みには、人の計画や予定を凌駕する導きがあったといわざるを得ないことを深く思います。

◆ 同志社の歩みはパッチッワークようにさまざまな人たちの思いや願いや働きがイエス・キリストという糸でつなぎ合わされて生み出され、育てられて来たと思うと申しあげましたが、パッチワークのもう一つの特徴は、限りなく広がるということです。アンティオキアのような教会、パッチワークのような教会は、今の状態にとどまらない。未知の世界に押し出されていくのです。そのような実りをわたしたちは、この同志社教会という教会の歴史の中にも見出し味わい直すのです。

2014年7月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年7月20日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第7主日
説 教:「行列に並ばなかった人」
牧師 望月修治
聖 書:ガラテヤの信徒への手紙
5章2-11節(新約p.349)
招 詞:エレミヤ書23章23-24節
讃美歌:28、8、392、397,91(1番)
交読詩編:52:1-9(p.57上段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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