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2019年5月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.5.26 ルカによる福音書7:1-10 「あなたの言葉を聞きたいのです」 望月修治   

◆ イエスの周りには病気の癒しや罪の赦しを願って様々な人たちがやって来たことを福音書は伝えています。その時、しばしばイエスは訪れた人の振る舞いを見て「あなたの信仰があなたを救った」と宣言し、その人を癒し、赦しを宣言しています。これは形としてはよくあるパターンだと言えます。

◆ しかし一方で、癒しの理由が癒される人自身にあるのではなく、周りにいる人の信仰の故にという出来事も聖書には記されています。今日読んでいます7章1節以下の物語もそうです。百人隊長の部下の一人が死の病に苦しんでいました。百人隊長は、ユダヤ人の長老を介してイエスに助けを求めます。その求めに応えてイエスが近くまでくると、再び使いを出して「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただひと言おっしゃってください」と伝えます。それに対してイエスは感心して、こう答えるのです。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。」

◆ 百人隊長の言葉に対するイエスのこの反応は大変興味深いものです。「感心する」と訳されている言葉(タウマゾー)は「驚く」と訳されることが多い言葉です。イエスは百人隊長の言葉を聞いて驚き、すぐに振り向いて群衆に向かって言われたのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。「イスラエル」とは民族の呼び名です。神を信じ、神に選ばれているという確信をもって生きている神の民のことを「イスラエル」と呼びます。イエスはここで意図的にこの呼び名を用いています。自分たちは神に選ばれた民だと信じているユダヤの民の中にも、これほどの信仰をわたしは見たことがない、これほどの信仰をとうとう見つけることは出来なかったということが、イエスの言葉には込められていたと読むことができる箇所です。

◆ このイエスの言葉を聞いて、まず驚いたのは百人隊長自身であったと思います。一所懸命であったに違いありません。病気で死にかかっている部下を助けていただきたい、と一所懸命に神の助けを求めていたには違いありません。しかし自分がこのイスラエルの仲間や友人たちにもないほどの信仰を持っているなどとは夢にも思っていなかったはずです。ユダヤ人の友人たちも驚いたと思います。彼らは、この百人隊長は自分たちユダヤ人を愛してくれているし、ユダヤ教の会堂も建ててくれた立派な人だけれど、私たちと同じ信仰を持っているとは言いにくいと思っていたはずだからです。ですから百人隊長に好意的に答えてあげようしたのです。自分たちは神の民イスラエルに属しているという特権を用いて、まず私たちがこの人のことをイエスに取りなしてあげなければいけない、おそらくそう考えたのです。

◆ それに対してイエスは言ったのです。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」ユダヤの人々が当然の筋道だと考えていたことは思い違いなのだというのです。思い違いという点では百人隊長も同じです。「これほどの信仰を見たことがない」とイエスを驚かせたものを自分はもっているなどと、当の本人が全く気づいてはいないからです。

◆ では、百人隊長の取った行動の一体何が、これほどの評価をイエスにさせたのでしょうか。私たちの関心はその点に向けられます。彼はイエスを自分の家に迎え入れるなどできるような者ではない、こちらから伺うことさえふさわしくない者だ、だからユダヤの長老に頼んで使いを出したのだと述べています。これは神の前において自分はどのような存在であるか、異邦人である彼は自分が神の民に属していないことをきちんと認識していることを告白しているのです。そして「ひと言おっしゃってください」とだけ求めます。自分がイエスにこのような願いごとをする、あるいは願いごとをするために自分がイエスのもとに出かけていくことさえ、自分にはふさわしくないと思っているけれども、しかしそれでも「ひと言おっしゃって下さい」と、使いの者を介して頼み、またやって来たイエスにもそう彼は言ったのです。

◆ イエスが百人隊長の一連の行動を見て、イスラエルの中でさえこれほどの信仰を見たことがないと語った。それはこの人の行動のどこを見たのかといいますと、百人隊長がどれだけ深く神に思いを向けていたか、どれだけ自分の生き方をきちんと整えて生きていたか、ということもあるだろうと思うのですが、イエスが評価したポイントはそこにあるのではありません。この人が自分の部下のために、自分以外の人のためにそこまで懸命に助けを求めたという点に、イエスの眼差しはおそらく向いたのだと思います。

◆ 信仰をもつという時に、あるいは神を信じるという時に、私たちは自分の生き方、自分のあり方をいかに整えるか、いかに神の前によしとされるように生きるかということに関心が向き、重きが置かれがちです。しかしイエスがここで「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言っているのは、異邦人である百人隊長自身の信仰のあり方、神の向き合うことにおける純度の高さを指しているのではなく、百人隊長が死に瀕している自分の部下の癒しをひたすら願って、イエスのもとに、しかも使いを介して願ってきたという、このあり方に、イエスは「これほどの信仰を見たことがない」と語ったのだと思います。

◆ わたしたちは毎週礼拝にやってまいります。礼拝に出席をするということは、自分自身の慰めを得るため、自分自身の養いを与えられるため、自分自身がまた新たな1週間を歩むため、その力や支えを確認するためだと思って礼拝に出席することが多いのだと思います。しかしそれだけではないのです。礼拝に出席をするということは、わたしたちが出会っている人、自分の家族、一緒に生きている人たちのことをも、新しい1週間、神様が守って支えて歩んで下さいと祈り、神に執りなす務めを担って礼拝者となるのです。単に自分の救いのために、自分の心の安寧のために礼拝に出席するのではありません。百人隊長の生き方はそのことを示しています。だからイエスは「これほどの信仰をイスラエルの中にも見たことがない」と、最大級の評価をしたのです。自分の中に隣人がいる。家族という隣人、友人という隣人、同僚という隣人、様々な隣人が自分の中にいて、その人たちのことを心にかけ、その繋がりの育みを神に願い、神の働きにつなぐ。そのような生き方に踏み出す時、見える世界が今日の物語に描かれています。

◆ 執り成しの務めを担う時に求められているのは、神への信頼です。執り成す者に求められるのは立派であることではなく、神に対してあるいは一緒に生きる人に対して誠実であろうとすることです。祈りの言葉の熱さに酔うのではなく、祈りの言葉が聞かれることへの信頼に生きていこうとすることです。相手を利用する、あるいはあなたは立派ですねと自分への評価を得ようとする、そうではなく、相手の人が生かされることを思い、歩むのです。神はその思いに、歩みを受け止め、向き合って下さいます。

2019年6月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年6月9日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ礼拝
説 教:「いのちは故郷の言葉に乗って」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録2章1〜11節
招 詞:ルカによる福音書11章9〜10節
交読詩編:146
讃美歌:26,342,346,524,91(1番)
聖歌隊:339,549
幼児洗礼式・聖餐式を行います。

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