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2018年11月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.11.25 サムエル記下5:1-5 「王の職務の光と影」    望月修治      

◆ サムエル記下2章から列王紀上2章にはダビデが王位を継承しイスラエル王国の基盤を築いていく物語、「ダビデ王物語」あるいは「ダビデ王位継承史」とも呼ばれている物語が記されています。時代は紀元前10世紀です。初代の王サウルの跡を継いだのがダビデです。その統治は紀元前1000年〜961年だと言われ、40年の長きにわたりました。しかし40年もの間、ダビデが王の職務を担い得た背景には、辛く痛ましい体験がありました。おそらくその体験なしにダビデは王の職務を40年も担い得なかったかも知れないのです。その出来事は11〜12章に記されていますので、その物語につなげながら「40年間王位にあった」というダビデの生涯に思いを広げてみたいと思います。

◆ ダビデは自分に仕える武将の一人ウリヤの妻バト・シェバが水浴びする姿を目撃し、その美しさに見せられてしまいます。そこで軍司令官のヨアブに命じて、ウリヤを戦闘の最前線に送り込んで戦死させました。ダビデはウリヤの喪の期間が明けるのを待って、バト・シェバを宮廷に入れ、形の上では合法的に自分の妻にしてしまいました。バト・シェバは男の子を出産します。ダビデのもくろみはうまく運んだかに見えました。しかし思いがけないブレーキがかかりました。

◆ 11章の終わりにこう記されています。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」そして神はナタンという預言者をダビデのもとに遣わします。ナタンは神の怒りを身に帯びて、ダビデを怒鳴りつけたのでしょうか。ダビデに対して、直接ウリヤの件を持ち出しませんでした。ナタンは静かに一つの物語を語り出したのです。内容を要約すれば次のようになります。家畜をたくさん所有していた一人の金持ちがいました。ある時、客人が訪ねてきました。しかし、その客人をもてなすために、自分の所有する家畜の一頭を屠ることを惜しんで、一人の貧しい男が我が娘のように可愛がっていた、たった一匹の雌の子羊を力づくで取り上げ、これを調理して、客人をもてなしたという、物語です。

◆ ダビデはこの話を聞いて激怒し、こう語りました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊の償いに4倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンは間髪入れず切り返しました。「その男はあなただ。」これは強烈なカウンター・パンチでした。続いてナタンはダビデが部下ウリヤの妻を我がものにしたいがために、ウリヤを最前線に送り込み戦死させた行為、それゆえにあなたは神から罰せられるのだと説きました。・・・・人間は自分の弱さを突かれると、謙虚になるよりも、言葉を荒げて怒ることの方が多いのです。ダビデは王ですからナタンの言葉を遮って怒鳴り返しても不思議ではありません。しかしダビデはこの時、怒りませんでした。そして重い言葉を口にします。「わたしは主に罪を犯しました。」神に対して自分の罪を告白しました。王としてのメンツを捨てたのです。 

◆ この時のナタンの対応は示唆に富んでいます。ナタンはダビデを初めから頭ごなしに断罪することはしていません。まず物語を語りました。それはダビデの心に人間としての気持ちを呼び覚ますためです。人間としての気持ちを呼び覚まされたからこそ、ダビデは「その男はあなただ」というナタンの指摘を謙虚に受けとめることが出来たのです。「わたしは主に対して罪を犯した」・・・・この告白はダビデが、部下のウリヤを亡き者にして、その妻バト・シェバを我がものにしたことを、何よりも神に対する罪として認識したことを示しています。「わたしは主に対して罪を犯した」と告白するダビデは、おそらく自分が犯した罪によって、もはや神との関わりは断たれてしまった。取り返しのつかないことをしてしまったという思いに捕らわれていたはずです。自分は今までで神からもっとも遠くにいると感じたと思います。しかしその時、ダビデはナタンから思いがけない言葉を聞きました。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」聖書の神は、罪を犯した人間がその問題に気づいて、悔い改めて罪の告白をすることを待っている神です。だからダビデの告白を待ちかねるかのように、神は赦しを語るのです。

◆ しかしながら、神によるこの罪の赦しは、罪の責任を不問にするということではありませんでした。我が子の死という痛ましい悲しみにダビデは打ち砕かれ、自分が犯した罪の責任はいかに重いものであるかを思い知ることになるのです。その時のダビデは奇妙な振る舞いを見せました。神から子供の死を予告されたダビデは子供の命が奪われないように、食事も摂らないで神に必死に求めました。しかし子供は亡くなってしましました。家臣たちは子供の死をダビデに知らせることを躊躇しました。これまでの嘆きようからして、子供が死んだと知ったら、ダビデはもう起きあがれないのではないかと案じたからです。

◆ けれども我が子の死を知ったダビデは、家臣たちが思っても見なかった行動に出るのです。「ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。」(12:20)これは喪に服するということとは全く正反対です。家臣たちも全く理解できず困惑してダビデに尋ねます。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。」ダビデはこう答えます。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」この言葉はダビデがすべてのことは神の思いの内に置かれていると理解し行動していたことが明らかにします。彼は子供の死という痛ましい出来事にも、神の意志を見出そうとしたのだと言えます。

◆ ある注解者がこう記しています。「ある女を虜にしようとして弓を絞ったが、的から外れた矢は意外なところに飛んでいった。神さまの胸をグサリ射てしまった」。これはダビデとバト・シェバの物語の本質を言い当てています。つまり問題は人間の間だけにはとどまらなかったのです。人の妻と床を共にして、それを隠すために部下の命を奪った、このことはもちろん人間に対する罪ではあるのですが、その「的はずれ」の生き方から放たれた矢は、神の胸をもグサリと射てしまう、これが聖書の罪理解です。人に対する罪は同時に、神に対する罪であると聖書は言うのです。それゆえその現実は隠せないのです。この受け止めは、その後のイスラエルの歴史の中で長く受け継がれていきました。

◆ 福音書記者のマタイもこの視点に立って福音書の冒頭に系図を記しました。その中にダビデとバト・シェバを巡る出来事のことが書き込まれています。マタイ福音書1章6節です。「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」た。ここにはバト・シェバの名は直接しるされてはいませんが、明らかにダビデがウリヤの妻バト・シェバとの間に犯した罪のことが意図的に取り上げられているのです。そしてそこに聖書的理解が示されています。すなわちイエス・キリストは罪を犯さなかったけれども、しかしこの系図をたどれば、そこには罪を犯すありのままの人間の姿があり、その罪を一身に担うためにこそキリストは誕生した、そうマタイは理解しているのです。

2018年12月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年12月9日(日)午前10時30分
降誕前第3主日 
奨 励:「異なる思い・異なる道」
牧師 望月修治
聖 書:イザヤ書55章1〜11節
招 詞:ローマの信徒への手紙
15章12〜13節
交読詩編19;8-11
讃美歌:26,52,241,482,91(1番)

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