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2017年3月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.3.26  マタイによる福音書17.1-13 「戸惑う人々」     望月修治      

[新月] レント、受難節の日々を今、過ごしています。レントとはラテン語です。音楽をなさる方ならこのレントという言葉は大変なじみ深い言葉だと思いますが、「ゆっくり進む」という意味です。そのことは、レントの季節を足早に通り抜けてしまうのではなく、「ゆっくり進み」ながらイエスの受難について思いを巡らすことを促しているということです。人の苦しみは時間をかけてゆっくりと向き合わねばなりません。またゆっくり向き合ったとしてもその人の苦しみのすべてが分かるわけではありません。場合によってはほんの表面をなぞるだけということもあります。だからこそ、レントはゆっくり進む季節、ゆっくりと歩んでイエスの十字架への道、受難を思う時なのです。

[新月] 今日の箇所もイエスの受難の歩みを思い巡らすためのテキストの一つです。高い山の上でイエスの姿が変わり、真っ白に輝いたという出来事が記されています。何度も読み重ねて来た箇所ではありますが、このような物語を読むと、いつも少なからず戸惑いを覚えます。イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登ります。そこでイエスの姿は変わり、服は真っ白に輝き、さらにそこへ旧約の時代に活動した預言者のエリヤと指導者のモーセが共に現れてイエスと語り合ったというのです。この場面をどのように受けとめたらいいのでしょうか。何より近くにいたペトロたちはどう受け止めたのかが気になります。4節のペトロの言葉にそれは示されています。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです。」

[新月] 高い山の上で起こったこの不思議な出来事をペトロたちは「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです」という具合に受けとめたというのですが、この受けとめ方は人が素朴に抱く神のイメージを象徴しているといえます。近寄りがたく、光り輝いている、あるいは栄光に満ちていることが神であることを納得する理由となる。あるいは人間には出来ない超自然的なことを行えることこそ神の神たるゆえんであり、ありがたいことだと考えるということ。これは、よくあるパターンです。

[新月] しかし、もしそうであるのなら、いくつか疑問が出て来ます。ひとつは、このような不思議な出来事が目の前で起こったらみんながそれは神さまの働きだと信じるようになるというのであるなら、なぜこの出来事を目撃したのはペトロとヤコブとその兄弟のヨハネの3人だけなのかということです。もっとたくさん人がいるところで、あるいはせめて3人だけではなくもっとたくさん弟子たちを引きつれて山に登ったらよかったのではないかと素朴に思います。加えて9節ですが、山を下りる時に、イエスが弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と強く口止めしていることも素朴な疑問を抱かせるのです。

[新月] 今日の箇所では、高い山の上でイエスの姿が変わったという出来事を、その場に一緒にいた3人の弟子たちのように受けとめることに対して、歯止めがかけられていると読むことが出来ます。山の上でイエスの姿が変わり、服は真っ白に輝き、旧約聖書を代表する人々の中の二人、モーセとエリヤがイエスと一緒に語り合っている。このシーンは視覚的には明るく輝いています。けれどもそこで話し合われていたことは何かといえば、9節に「人の子が死者の中から復活するまでは」という発言、あるいは12節の「人の子も人々から苦しめられることになる」という発言から類推して、イエスの十字架の出来事をめぐることであったと考えるのが妥当です。ですから山の上でイエスの姿が変わるというこの物語は、二重構造になっているのです。弟子たちあるいは人々は光り輝く姿、神の偉大な力に驚き賛美するのですが、しかしイエスが語るのは苦しみと十字架の出来事であるという、全く食い違った二重構造になっているのです。そしてこの二重構造が弟子たちには見えていない、理解していないというのが今日の箇所のポイントです。神の働きはいつも私たちが期待するような栄光に満ち、光り輝くのではないのだということをここで示します。

[新月] 山の上でイエスの姿が変わるという出来事に出会ったとき、ペトロは、ここに仮小屋を三つ建てましょうと語ります。しかしイエスは山を下り、痙攣を伴う病気に苦しむ子供に向き合ったというのです。イエスの本来いる場所は、三つの庵を建ててよい気持ちになって山の上にいることではなく、平らな所、人間の日常の生活が営まれている所なのだとマタイは示します。このことをさらに押し進めて言うならば、神はこの世の中で最も無力な者として、あるいはこの世の中のあしらいやあざけりが投げつけられる、地の底にある存在として、紹介されているのだということではないでしょうか。

[新月] この神の姿は、私たちに価値の転換を迫ります。神が偉大であるのは高い所にいるとか、栄光に輝く存在であるというのではなく、人間の苦しみや悲しみにこそ関わり、慰め、生き方を変える力、支えとして働きかけるからこそ偉大なのです。神が偉大であるとはどういうことかをとらえ直せという問いかけを受けているのです。

[新月] 高い山は近寄りがたいが故に、神秘とされ聖なる場所とされてきました。しかしイエスは高い山に登って近寄りがたさを押し出すことを目指したのではなく、山を下り事柄が分かっていない弟子たちや群衆たちの間に立ち続けた人です。きわめて身近な存在として、人間の破れにみちた現実に寄り添い、隣人であり続けた人です。故郷ナザレでは、あまりの身近さの故に、人々はイエスにつまずいたとマタイも13:53以下に記しています。 けれどもこの身近さこそ救い主である理由なのだと聖書は語るのです。人間の日々の営みから遠くあるのではなく、その営みに寄り添い、支えるからこそ「救い」なのです。イエスは高い山に登り、そこにとどまる人ではなく、山を下りふもとにある人です。ふもとは清い場所ではない。整えられた場所でもない。また人々の悔い改めに満ちた場所でもない。山を下りる途中で、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じました。(17:9)たんに「言った」のではなく「命じた」とありますから、これは強く念押しをしたということです。イエスが救い主であることの意味は、十字架の死という出来事を人々が体験した後で、はじめて分かったことです。それ故にイエスは強く念押したのです。

[新月] 十字架にかかったイエスが救い主あるということの意味は、知識として知る、納得するというのではなく、私たちがそれぞれの人生の中で味わっていく体験を通して、味わい知っていくのです。神はその働きを,知識ではなく、イエスの十字架の死という事実、具体的な出来事を通して、「わたしはあなたたちと共にいる」ということを、神は私たちに伝えようとされるのです。単に知識として「わたしはあなたたちの主だ」と言われたわけではありません。自分の一番大切なものを差し出すことをなして、人々がその神のなさりように戸惑い、迷い、悩み、思いを巡らす、そういう体験を人がもつこと通して、その体験を窓として、神は「あなたたちと共にいる」、イエスはあなたたちにそのことを示すために働く救い主なのだと示されたのだと思っています。いろいろな出来事をこの1年味わってきました。悔しいこともあり、切ないこともあり、嬉しいこともあり、いろいろな出来事がありました。その出来事は、イエスの十字架の死と復活が持っている意味を新たに私たちが味わい直すために備えられてきたことなのだと思っています。それぞれが歩んできた1年の歩みを大切に思い起こし、思いめぐらしながら、残されているレントの時をゆっくりと思いを巡らして歩みたいと思っています。

2017年4月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年4月9日(日)午前10時30分
復活前第1主日/受難節第6主日
新入生歓迎礼拝     
説 教:「十字架の守り人」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
27章32-56節
招 詞:ゼカリヤ書9章9-10節
交読詩編:118;19-29
讃美歌:26、127、303、306、91(1番)

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