SSブログ

2022年6月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

使徒言行録16章16~24節 「牢獄の中で」 大垣友行

★ ペンテコステの出来事を思い起こして、聖霊降臨節の歩みを続けています。聖霊の働きによって初期教会が生まれ、宣教のわざが地中海世界のあちこちに及ぶようになって行く様を、わたしたちも追体験しています。
★ ペトロをはじめとして、使徒たちやその多くの弟子たちが、キリストの福音を宣べ伝えて回りますが、その歩みには常に、迫害の暗い影がつきまとっていました。あるいは御言葉によって、またあるいは癒やしのわざによって、回心する人々も数多くいたわけですが、ユダヤ教徒たちは、彼らの働きを快く思っていなかったようです。使徒たちは投獄され、鞭打たれますが、そうした迫害は、却って彼らの信仰をより堅いものにしたのでした。
★ 宣教のわざの極めて重要な担い手として登場してくるパウロも、元は初期教会の活動を快く思わず、迫害する側に立っていました。彼は優れたユダヤ教徒でもあり、ローマの市民権を持ち、ヘレニズム世界の教養を備えた、いわばエリートでもありました。パウロは、9章の冒頭にあるように、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」いました。
★ しかし、ダマスコ近辺でイエスに呼び掛けられ、彼は決定的な回心を果たします。彼は神様によって召し出され、福音宣教の担い手として立てられます。自らの力や才能を頼んだ生き方ではなく、主に仕えるという生き方に変えられていきます。彼は使徒たちとも交わり、多くの弟子を獲得していきます。彼もまた、初期教会の一員となり、キリストの福音を伝えてゆくため、旅をして回ることになります。
★ 福音を告げ知らせるということが彼らの第一の任務でしたが、15章にあるエルサレムの使徒会議を受けて、行く先々で律法をどう理解すべきかということを伝えることも、大きな任務となりました。異邦人のため、彼らを意識した福音理解をもたらすことです。そう言いながらも、テモテを伝道旅行に連れて行く時、パウロは割礼を授けています。「その地方にユダヤ人の手前」(16:3)ということですから、救いのために必要なものとして強制したのではなかったのでしょう。
★ そんな状況の中、パウロやバルナバが選ばれ、アンティオキアに派遣されることになります。しかし、誰を同道するかという問題で、結局パウロとバルナバは袂を分かって、それぞれ異なる歩みをはじめることになりました。パウロはシラスを、またテモテを伴って旅をしました。
★ 今日の聖書箇所では、そうした旅路の中で、フィリピに立ち寄った時の場面が描かれています。ある時、彼らは「占いの霊」に取り憑かれている女奴隷に出会います。その女奴隷が、パウロたちの後からついて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び回ったと言います。こんなことが何日も繰り返されたために、パウロは「たまりかねて」、イエスの名によって、この女奴隷から出て行くように、霊に命じました。
★ この場面は、たとえば今日の日課に挙げられています、マルコ福音書5章で、ゲラサの人を癒やしたイエスの働きを思い起こさせます。不思議なことに、今日の場面でも、このマルコの箇所でも、霊はイエスのことを、あるいはイエスに仕える使徒や弟子たちのことを正しく把握し、言い当てています。どういうわけか、ここで「占いの霊」はパウロたちにつきまとい、その働きについて言葉にしています。あるいは正しいことでも、やたらに喧伝されると角が立つということでしょうか。「たまりかねて」パウロが、霊に女奴隷から出て行くように命じたために、彼女は救われることになります。ですが、そのために、女奴隷を金儲けの手段として使っていた主人たちが怒って、パウロたちを役人に引き渡そうとします。
★ 牢獄と言うと、わたしたちにとっては、極めて縁遠いもののように思われます。ですが牢獄と言っても様々です。わたしたちの心が内向きになり、他者を思い遣る余裕を失う時、比喩的な意味ではありますが、わたしたちは牢獄に閉じ込められることになる、そのように言うことができるのではないかと思います。
★ アメリカに生まれ、イギリスに帰化した詩人、T. S. エリオットは、第一次世界大戦という、当時、数多くの人々に対して物理的にも精神的にも、非常に大きな打撃を与えた出来事を受けて、人間の、とりわけヨーロッパ人の精神的危機を自覚し、「荒地」という長い詩作品を作り出しました。かつてないほどに多くの人々の命が失われた戦争の惨状、それに伴う人間精神の荒廃を目の当たりにしつつ、エリオットは、立ち直るための術を模索しています。彼はそれを、キリスト教的な仕方だけではなく、異教的なものを通して行うのですが、そのためには「与えること」、「相憐れむこと」、「己を制すること」が大切であると、ウパニシャッドの言葉を引きつつ語っています。
★ 「僕はかつて一度/室に鍵がかけられるのをきいたことがあった/ただ一度だけ/我々は皆自分の牢獄で鍵のことを考える/鍵を考えるときには我々は皆牢獄にいることを確認するのだ」(西脇順三郎訳)とエリオットは述べています。ここに、他者への思い遣りを忘れ、自己利益を追求することに汲々とし、ついに破局をもたらしてしまった近代人の姿が描き出されているように思えてなりません。特に「相憐れむ」こととの繋がりで言えば、孤立した自己と自己とは、互いに隔絶した状況に置かれながらも、お互いを思い遣ることの大切さを忘れてはいけない、ということになるのではないでしょうか。
★ 今日の聖書箇所の続きには、不思議な出来事が描かれています。真夜中頃、パウロとシラスが賛美の歌をうたっていると、大地震が起きて、牢の戸が開き、囚人たちをつなぎとめていた鎖も外れてしまったと言います。彼らは責任をとって自殺しようとする看守をたしなめ、洗礼に導きます。やがて彼らは、パウロがローマの市民権を楯にとったこともあって、結局釈放され、旅を続けることができたのです。
★ 自分自身の牢獄から出るためには、あるいは様々な方法があるでしょう。わたしたちとしては、キリストにつながる者として、静かに讃美の歌声を上げ、あるいは隣から聴こえて来る歌声に耳を傾け、主の助けによって自由にされたものとして、お互いを思い遣り、旅を続けて行くことができればと願います。

2022年7月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年7月10日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第6主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「喜びにあふれて」
              牧師 菅根信彦
聖 書:使徒言行録8章26〜40節
招 詞:詩編95編1〜3節
讃美歌:24,355(1・2・4節),404(1・2・3節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。