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2016年5月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年5月8日(日)午前10時30分
復活節第7主日
説 教:「いつもの営み、いつもの働き」
 牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書7章32~39節
招 詞:ヨハネの黙示録5章11~12節
交読詩編:46
讃美歌:28、208、404、337、91(1番)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
 どなたでもおこしください。


2016年4月24日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2016.4.24 ヨハネによる福音書15:18-27「憎まれっ子」  望月修治         

◆ ヨハネによる福音書が書かれたのは紀元100年に近い頃であったと考えられています。この福音書を書いたヨハネはパレスチナの地域のどこかにあった教会に属していたのであり、その教会が置かれていた厳しい状況を、教会の人たちと一緒に味わい、苦しい思いを重ねながら生きていました。そんな自分たちに、イエス・キリストの福音、イエスが自らの生き方を通して明らかにしたことは、どのような意味をもつのだろうか、どんな力や支えになるというのだろうか。そのことを問い、その答えを明らかにしたいと願いながら書かれたのがヨハネ福音書だったのではないかと思います。

◆ 1世紀が終わりに近づいていたころ、キリスト教徒は同胞であるユダヤ教の人々から弾圧を受け、迫害されていました。その状況を端的に表しているのが「会堂から追放する」という表現です。会堂から追い出されるということは、ユダヤ社会の中で生きていけなくなる、村八分にされることを意味します。

◆ 5年前の3月11日の東日本大震災によって引き起こされた原発事故による放射能被曝をめぐる風評被害がとくに福島の人たちの生活を直撃し続けています。また先日14日の夜以降熊本で起こった震度6、震度7の激震とその後も続く揺れによって6万人7千人を超える方たちが辛い避難生活を続けておられます。耐え忍ぶ立場に置かれる痛みへの想像力を私たちは問われています。ヨハネが福音書を書いた時代のキリスト教を取り巻いていたのも、激しく渦巻く風評の連鎖による弾圧でした。「会堂から追放する」と脅され、命の危険さえ感じる中で、ヨハネが属していた教会の人々が選択を迫られたのは、イエスを主と告白する信仰に生きるのか、それとも会堂から追放されることを恐れてユダヤ教の枠の中に再び戻っていくのか、そのどちらを選ぶかということでした。

◆ もう一つ付け加えますと、ユダヤ教当局者は、会堂に入り込んでいるキリスト教徒、たとえばアリマタヤのヨセフのような存在を見つけ出し、会堂から追放するために祈りを用いました。ユダヤ教では紀元前1世紀ころから、すなわちイエスが登場するより100年ほど前から、会堂での礼拝で「18祈祷」(シェモネ・エスレ)と呼ばれる祈りを唱えていました。ヨハネ福音書が書かれる少し前に、ユダヤ人の中のキリスト教徒を探し出すために、この18祈祷に新たな項目を加えました。それは次のような祈りです。「背教徒(異端者)には何の希望もありませんように。・・・そしてナザレ派(ユダヤ人キリスト教徒)は一瞬のうちに滅び去り、生命の書から抹消され、義人たちとともに記されることがありませんように。高ぶる者を屈服させたもう主よ、あなたはほめたたえられるべき方です」という祈りです。会堂での礼拝で、この祈りを唱える時につかえたり口ごもったりする者はキリスト教徒と見なされ、追放処分あるいは死刑にされました。ユダヤの中でキリスト教徒は憎まれっ子となっていました。祈りは、本来神に対する感謝と信頼との表現であるはずなのに、ユダヤ教当局者たちはそれを異端者発見の手段として利用するのです。それは自分を守るために、あるいは自らの組織を守るために神を利用することです。他人事ではなく、私たちも信仰という名の下に、このマイナスのスパイラルに陥ります。しかもそれは神のためであり、そうすることで神に仕えているのだと錯覚して、突っ走ってしまうことも起こります。


◆ そのような時代に生きる教会の人たちに向かってヨハネが記したこの福音書は、イエスの生涯を、十字架に掛かる直前の最後の夜の出来事に多くのスペースを割いて描いています。13章から16書の終わりまで、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った決別の言葉だという枠組みで、イエスの教えがずっと書き記されています。ヨハネ福音書に描かれるイエスは、この最後の夜に、全てを注ぎ出すかのように語り続けます。今日の箇所もその中に含まれています。弟子たちが受ける迫害からはじまって、イエスがその弟子たちのもとに送る「弁護者」について述べられています。26節に弁護者のことが語られています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとからでる真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」 「弁護者」とは、もともとは、呼ぶとそばに来てくれて助けてくれる者、という意味です。現代で言えば弁護士が、そういう助け手の代表的存在です。裁かれる者がひとりでは裁きの座に耐えられない。そのような時に、呼べばいつもそばにいてくれて、時には自分よりはるかに雄弁に、自分の正しさを主張してくれる。自分が言葉を失っても、弁護士は言葉を失わない。裁きに耐えさせてくれる。ひとりでは耐えられなくても、弁護士がそばにいてくれれば立つことができる。イエスが弟子たちのもとに派遣するという「弁護者」とはこのような存在のことです。

◆ イエスが弟子たちのもとに弁護者を送るというのですが、その「弁護者」の役割としては証しをすることが記されています。「証しをする」という言葉は新約聖書の中で76回使われていますが、そのうち43回がヨハネ福音書あるいはヨハネの手紙の中で使われています。何を証しするのかと言えば、イエスとはどういう人で、その言葉や働きはどのような意味をもっているのか、そしてどのような力となってわたしをそして人を生かし、支えたのか、支えているのか、それを語り伝えるのです。

◆ 福音書に語られているイエスの行動は多岐に渡っています。例えば安息日にイエスは病気の人を癒しています。病気の人を癒すことは仕事をすることを意味しています。そしてユダヤの律法では安息日に労働することは禁じられていました。その安息日に仕事をしたことをファリサイ派の人たちは問題にし、イエスは殺されても当然とさえ判断したというのです。憎まれっ子に自らなるようなものです。それなのになぜイエスは仕事と見なされる行為をしたのか。安息日に関わることだけではありません。イエスは他にもいろいろな行動をしています。大勢の群衆の空腹を5つのパンと2匹の魚を使って満腹にしたとか、手足の不自由な人、目の見えない人を癒したとか、かと思うと、神殿で商売をしている人たちの台を次々にひっくり返して怒りあらわにしたりといった具合です。この一連のイエスの行動の理由は何なのでしょうか。なぜイエスはこのような行動をしたのか。

◆ イエスの行動はその場その場で違っています。でもその全てを生み出す理由があるのです。そしてそれは実はシンプルなのです。今出会っている人、今関わっている人、その人が生かされること、支えられること、助けとなれること、その人とに寄り添って一緒に生きるために出来ることは何か、イエスはいつもそのことを大切にして行動しつづけたのです。だから安息日であっても、出会った人を支え、助けることがあればそれを行ったのです。その人に寄り添い、その人が「生きていてよかった」と思える生き方が出来るように働くことをイエスは貫いたのです。

◆ ヨハネは迫害に見舞われている教会の人たちに、そのイエスのことを伝えて、イエスの福音に一緒に生きようと促したのです。

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