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2018年5月27日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.5.27 ローマの信徒への手紙8:12-17 相続人の義務」     望月修治     

◆ 私たちが神のことを語る時には「父なる神」という表現で言うことが多いと思います。神を父と
呼ぶという呼び方はイエスによってはじめられたといってよいものです。本日の箇所の15節に「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記されていますが、「アッバ」とはアラム語です。「父」という意味です。当時、ユダヤの人々の日常語はアラム語でした。旧約の古い時代にユダヤ人たちが話していたのはヘブライ語です。しかし紀元前5世紀から4世紀頃、それはちょうど旧約聖書の編纂が始まった時代なのですが、この頃には一般のユダヤ人はヘブライ語ではなく、アラム語を使っていました。ヘブライ語は、勉強した知識人だけが分かる言語でした。イエスも日常生活で使っていたのはアラム語でした。そしてアッバという父を意味するアラム語を用いて神を呼びました。しかしだからと言ってアッバは特別な言葉ではなく、子どもたちが父親を呼ぶときの表現であり、日常の生活の中でいつも使われていた言葉です。日本語で言えば「お父ちゃん」とか「パパ」、あるいは「おやじ」といった言い方が「アッバ」でした。イエスが神のことを「アッバ」と呼んだことは、当時の人々にとって実に印象深いことだったはずです。ですから今日の箇所のように「アッバ」というアラム語をそのまま残し、ギリシア語で父を意味する「パテール」と並記したのです。

◆ 神のことを「アッバ」「お父ちゃん」と呼ぶ、それはイエスの気まぐれとか、ふと思いついてということではなく、神は遠くの神ではなく身近な神であることを分かりやすく示すためでした。イエスが示した聖書の神は、父親がこどもの訴えを聞くように、人の祈りを聞き、理解し、受けとめる身近な神なのです。あるいは後悔し、自分を責め、悔い改めて生きようとする者をあたたかく迎え入れる神なのです。イエスはそのことを「アッバ」と神に呼びかけることで示しました。

◆ そのことに気づき、生き方を大きく変えられて行った者のひとりが、このローマの信徒への手紙を書いたパウロです。彼は生前のイエスに出会ったことはありません。しかし、神に「アッバ」と呼びかけながら伝道活動をして行ったイエスの振る舞いは、パウロに大きな影響を与えました。イエスが「アッバ」と呼ぶことで明らかにした「身近な」神は、パウロにとって川の流れが下流から上流へ逆流するような内容だったのです。イエスを救い主だと受け入れる前のパウロは実に熱心なユダヤ教徒として生きていました。その熱心さの度合いをパウロは、フィリピの信徒への手紙3:5-6で「律法の義については非のうちどころのない者でした。」と書いています。この自画像が語るのは、毎日の生活において律法の掟を厳格に守り、自分を律することにひたすら打ち込んで生きようとする者の姿です。そのような生き方こそが神に喜ばれることだと信じて疑わなかった人生がそこに浮かび上がります。

◆ けれどもイエスが「アッバ」と呼びかけた神は、律法の掟をどれほど厳格に守っているかを規準とする神ではありませんでした。人間の行動や生き方の立派さ、功徳の積み重ねなど、行いの度合いに応じて人間を評価するのではありません。そのことをパウロはこのローマの信徒への手紙3:27で「人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない、信仰の法則によってです。」と記しています。「信仰の法則によって」とは、例えばルカによる福音書に記されている「放蕩息子のたとえ話」の中で語られた父親のように、神のもとに帰ろうとする者を迎え入れ、受けとめるという関わり方を意味しています。それは、何か悪いことや不幸なことが起こった時に、お前が何か悪いことをした報いだと互いに裁き合ったり、さげすみ合うという「行いの法則」から解放するということですし、また逆に何か良いことや、好ましい結果が出たときに、それは自分が立派な生き方をしたからだ、自分が正しかったからだとどこかでおごってしまう人間の心に、たしなめを告げることでもあるのです。

◆ パウロは、律法を守り、自分の行いを律することにおいて落ち度のないことをもって神の前に立とうと一途に打ち込んできました。それはイエスが示した神の働きとは正反対に位置する生き方ですが、神の求めにいかにふさわしく応えうるかを追求することにおいてその熱心さは抜きんでていました。そうであったからこそというべきなのですが、自らの正しさをよりどころとすることの愚かさに気付くことに、また一番近い所に立っていたのです。

◆ ルカによる福音書にある放蕩息子のたとえ話には、もうひとり兄息子が出てきます。兄は弟のように放蕩をして身を持ち崩すことはしません。大変まじめであり弟がいない間も父に仕え働いてきました。弟とは対称的であり、その意味で「正しかった」のです。この兄息子は弟が財産を全て使い果たして帰ってきたとき、父親がそれを責めもせず、それどころか最大級のもてなしで迎え入れたことを知り、怒り、家に入ろうとしませんでした。父親の振る舞いはとうてい納得できないとくってかかります。私たちはこの兄息子の言い分に納得します。自分がこの兄息子の立場であったら、同じようにいうだろう。いやもっと激しく文句を言うだろうと思います。それは私たちがこの兄息子と同じ見方に立って生きており、父親の判断、考え方には立っていないからです。

◆ 「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」・・この兄息子の言い分は彼が「正しさ」をどう理解していたかをよく表しています。自分は放蕩などしなかった。父にも仕え落ち度なく働いて来た、自分に責められる点などない。それが「正しさ」でなくて何だ、という思いです。そしてそのような意味での自分の正しさにこだわる生き方を兄息子は象徴しています。このこだわりのゆえに兄息子は父の喜びに入れませんでした。帰ってきた弟を裁き、家の外ですねてしまったのです。兄息子も父の思いから遠かったのだとこの譬え話は物語るのです。

◆ 人は厳しさと正義によって他人を悔いあらためさせようとします。しかし神は慈愛と寛容と忍耐によって人を招き、導くことをイエスは「アッバ」神を呼ぶことで示した人でした。寛容とは広さであり、忍耐とは長さです。神の愛は人を分け隔てしない広さと、なかなか帰り来ぬ者を待ち続ける長さにおいて示されます。厳しさと正義は人を萎縮させ、恐怖と密かな反発や憎しみを生みます。人が変わるのは、自分のことを心にかけ、心配し、待っていてくれる人がいることを知らされて行くときです。心に着込んだ何枚ものコートを1枚でも2枚でも脱いで、本当のことをしみじみと語り合えるつながりに生きたいと思うのです。そのような関わりを作る、それがイエスが「アッバ」と呼びかける神のあり方なのだということです。そのことに気づかされて行ったパウロは、180度違った生き方、しかし神の意思に出来るだけ添って生きたいということを彼は変えたわけではありません。だたその表し方が180度違っていただけです。だからパウロは躊躇することなく、ユダヤ教徒の時とは全く違った生き方へと転換しえたのです。それは神に対する思いが変わったからではありません。神の思いに添って生きようとする時に、どういうふうに生きるべきなのか、その方向が全く違っていた。そのことを、神をアッバと呼んで活動するイエスの生き方を知った時に、ああそうだったのかと弾かれるように気づいたのだと思います。自らの正しさにこだわり過ぎるときに、見るべきものが見えなくなってしまいます。心を本当に使うべき世界が切りおとされていく。イエスはそのような意味での正しさを神が望んでいるのではないことを「アッバ」と神に呼びかける、その一言によって奥深く示した人でした。

2018年6月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年6月10日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第4主日
説 教:「聖霊と悪霊、信仰と迷信」
       牧師 髙田 太
聖 書:使徒言行録16章16〜24節
招 詞:ヨハネによる福音書14章16-17節
交読詩編:32;1-7
讃美歌:24,340,54,347,91(1番)
○同志社女子大構内での駐車ができませんので付近のコインパーキングをご利用ください。

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