SSブログ

2020年9月27日(日)説教要約 [説教要旨]

説教要旨2020.9.27 エフェソの信徒への手紙3.14-21 「心の住み家の住人」 望月修治

◆ 聖書は、「はじまり」という時を、大切なことを語ったり指し示したりする場合の重要な舞台として物語ります。「愛する」ことについても、そのはじまりに人を繰り返しいざないます。中でも特にヨハネの手紙4:9-10には、聖書が語ろうとする「愛すること」の原点、始まりが的確に語られています。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたち内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神がひとり子をこの世にお遣わしになった、そこに愛があると書いています。

◆ そして今日読んでいますエフェソの信徒への手紙3:14以下には、この愛の始まりを人々が思い起こすこと、そしてそこに立ち戻ることを願う祈りの言葉が記されています。17節・18節です。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者にしてくださるように」「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し・・・・それによって満たされるように。」 「愛の広さ、長さ、高さ、深さ」とは愛することのすべて、全体ということです。ただしです。私たちが読んでいますこの新共同訳聖書では「キリストの愛の」「広さ、長さ、高さ、深さ」となっていますが、原文には「キリストの愛」という言葉はありません。前後の文脈との関連で、ここでの「広さ、長さ、高さ、深さ」とは「キリストの愛」の限りなく大きいことを言い表していると解釈して、原文にはない「キリストの愛」という言葉を補足して訳したのだと思います。しかしここでは「キリストの愛」というよりも、むしろイザヤ書55章(8-9節)に記されている神の働きを表した表現だと言えます。イザヤ書55章8—9節です。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」 神の思いと道とは人のそれよりはるかに大きく、高く、人はそれをとらえることができない。そのことが今日の箇所で「広さ、長さ、高さ、深さ」と語られていることの中身です。

◆ それでは人間の思いを高く超えていると聖書が語る圧倒的な力、働き、あるいは知恵を神はどのように用いるというのでしょうか。人間とどのような関わり方をするというのでしょうか。その神の働き方を印象深く語る物語が出エジプト記にあります。出エジプト記4章です。モーセがイスラエルの指導者として選ばれていく場面です。劇的な人生を生き抜いた人でした。彼は飢饉を逃れてエジプトに移り住んでいたイエスラエルの人々が、奴隷となっていた時代に生まれました。赤ん坊の時に、理由あってエジプトの王女に引き取られ王宮で育ちます。あるとき、奴隷として労役に駆り出されていた同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを目撃し、そのエジプト人を殺してしまいます。当然追っ手がかかります。彼はエジプトから逃亡し、紅海を挟んでシナイ半島の対岸に位置するミディアンの地で羊飼いとなり、身を隠して生きていました。そのモーセを、神は、奴隷状態で虐待されているイスラエルの人々がエジプトから脱出するための指導者に選ぶのです。大抜擢です。

◆ しかしモーセは神が託そうとしたこの役目を辞退しようとします。聖書はその場面を印象深く描いています。自分にはそのような役目は無理です、とてもそのような力量はありませんと彼は言うのです。断固として断る、そのような雰囲気が伝わってきます。臆する理由はある意味、よく分かります。モーセはエジプトで殺人を犯し、逃亡している身です。政治的指導者としての訓練など当然受けてはいません。出エジプト記4:1には、モーセが神の召しに逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言ったとあります。もっとも言い分です。彼はエジプトで役人を殺してしまうという事件を起こして以来、自らに失望し、自分に何か優れたものがあるなど到底思うことなどできずに、ミディアンの地で密かに暮らしてきたのです。自分を愛せない、自分を大切に思えないのです。同胞が虐待されているのを見て、いてもたってもいられなかったという事情はありました。しかし理由がどうであっても、かつて人を殺してしまった自分を許すことはできないまま、ずっと生きてきたのがモーセという人です。

◆ そのようなモーセに神が語った言葉が記されています。「あなたが手に持っているものは何か」唐突な言葉だったはずです。意味がわからない。だから彼は「杖です」とだけ答えました。それ以外の言葉は思い浮かびようがありません。モーセは羊飼いでしたから、羊の世話をして、野獣などから羊を守るために杖を持っていました。おそらく手垢と埃がこびりついた汚れた棒だったでしょう。特別な棒では全くなかったはずです。羊飼いなら誰でも持っていた道具であり、当たり前すぎて持っていることさえ意識してはいなかったと思います。神はその杖を、臆するモーセの背中を押す手立てとして用います。「それを地面に投げよ」というのです。地面に投げると、杖が蛇になったとあります。さらに神は「手を伸ばして、尾をつかめ」と言います。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った、というのです。驚くモーセに神は言います。「こうすれば、主があなたに現れたとみんなが信じるだろう。」

◆ ここで大切なのは、杖が本当に蛇になったのかどうかということではなく、神は人がその時点で持っているものを使って、自らをその人に啓示するということです。今までなかったものを差し出し驚かせるのではなく、今持っているものの中に神の働きがちゃんと刻まれていること、宿っていること、そしてそれによって支えられていることに、モーセ自身が気づかされたということです。他の誰かが「主があなたに現れた」と信じる、それもあるでしょう。しかし何よりも、モーセ自身が今まで見えていなかったことに気付かされる、「わたしの思いはあなたの思いをはるかに超えている」という神の働きの「広さ、長さ、高さ、深さ」を納得させられるのです。ひとつの気づきが井戸となります。「渇いている人はだれでも、わたしのところにきて飲みなさい。」(ヨハネ7:37)とイエスが語った「生きた水」、人の心の渇きを潤すいのちの水を汲む井戸となります。

◆ 苛立ちや不安や自信のなさ、人の思いはさまざまに揺れ動き、人を傷つける言葉が抑えきれずに口から出てしまうこともあります。そのわたしの、あなたの、私たちのすべての今に神は寄り添ってそのときどきのわたしに向かって、あなたに向かって「あなたが手に持っているものは何か」と語りかけ、今のわたしを、今のその人を受け止め、背中に手を添えて、そっと一方踏み出すように促すのです。それが人知を超えて深いと聖書が語る神の働き方です。それぞれいろいろな時を私たちは過ごします。昨日とは違う思いを持って、昨日とは違う苛立ちや不安を抱いて、その日を過ごします。そのときその時の私たちに「あなたが今も持っているものは何か」と問いかけ、その今持っているものを通して神は自らを一人一人に啓示するのです。持っていないものではないのです、あるいは昨日持っていたものでもないのです。今、今日、この時にあなたは何を持っているのかと神は私たちの問いかけ、今の状況の只中に、神は御心を示し、私たちを受け入れ、そっと押し出して下さる。その働きは人の思いを超えています。それが神様の私たちへの向き合い方であり、救い主イエスの向き合い方なのです。

2020年10月11日(日)主日礼拝

2020年10月11日(日)
聖霊降臨節第20主日 神学校日礼拝
説 教:「ある友との対話について」
    神学生 佐々木玲哉

聖 書:ヨハネによる福音書11章1〜16節
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章6〜8節
讃美歌:29, 516(1番・2番, 306(1番・2番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。