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2016年3月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年3月13日(日)午前10時30分
復活前第2主日
説 教:「暗闇の追走」
         牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
12章20~36節
招 詞:イザヤ書63章7~8節
讃美歌:27、407、303、502、91(1番)
交読詩編:22:23-32

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
 どなたでもお越しください。

2016年2月28日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.2.28  ヨハネによる福音書6:60-71 「葛藤」 望月修治            

◆ 「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか。」こんな言葉を誰かから言われたら、心は痛み、傷つきます。まして自分の仲間から、身内から言われたら、その辛さはどれほど心をえぐるでしょうか。イエスは弟子たちの多くの者からそう言われました。「実にひどい」(スクレーロス)とは、木株が固くなっている、しかもそこに節がたくさん集まってごちごちと固くなっている有様を指した言葉です。「受け入れがたい」「我慢するのが困難である」という意味です。「ひどい話」というのは、イエスが自分のことを「命のパンである」(35節)そして「天から降ってきた生きたパンである」(51節)と語ったことを指しています。これはイエス自身が命のパンそのものであるという意味です。このイエスの発言は、イエスと対立するユダヤ人たちとの論争を引き起こしただけではなく、弟子たちの多くに動揺を与えてしまいました。その結果、イエスの弟子たちの中から多くの脱落者が出て、イエスと共に歩まなくなるという事態を引き起こしました。イエスは危機に見舞われています。

◆ イエスが活動を始めてからある時期まで、人々はイエスのもとに群がり集まろうとしているかのように見えました。ところが事態は一変します。イエスの対する敵意が表に現れて行きます。「実にひどい話だ」とつぶやく弟子たちにイエスは言いました。「あなたがたはこのことに躓くのか。それでは人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」。 あなたがたは「わたしが命のパンである」と言ったことに躓いている。「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば」もっと躓くことになるだろうということです。「人の子がもといた所に上る」というのは十字架の道を歩むことを含んでいます。救い主としてのイエスはどのように生き、歩むのか、そのことが明確にされて行ったとき、人々が歓呼してイエスの周りに集まって来たというのではなく、逆に次々と去って行ってしまったのです。弟子たちの中からも多くの脱落者が出てきて、イエスのもとに残ったのは12人だけであったとヨハネは記します。

◆ 今日の箇所には「12人」ということが3回出て来てきます。67節「そこで、イエスは十二人に」、70節「あなたがた十二人は」、そして71節「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」この3カ所です。実は「12人」ということは、ヨハネ福音書の中では4回しか出て来ないのですが、そのうち3回が今日の箇所に集中しているのです。そして「12人」について二つのことが述べられています。ひとつは70節の言葉から分かりますように、イエスを裏切るユダを含んだ12人は、イエスが選んだのだということです。「イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。』」。(70節)

◆ もうひとつは、ユダを選んだのは気づかなかったからではないということです。64節に「イエスは最初から・・・御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」と記されています。イエスは、あなたがたの中の11人は選んだ。あと一人は最初から捨てていた。その捨てられていた者がわたしを裏切ると言っているのではありません。選ばれていなければ「裏切る」とは言いません。裏切るとは「選びに背く」ということです。しかしそれはユダだけではありません。弟子の筆頭格であったペトロもイエスのことなど知らないと否定しますし、他の弟子たちも十字架にイエスがつけられ、息を引き取る時、その傍らには誰一人いませんでした。みんな逃げ去ってしまいました。ユダだけではない、他の11人の弟子たちも「離れ去る」者のひとりでした。「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスから問われるひとりひとりです。そういう12人を「わたしが選んだ」というのです。そしてそれはイエスの意志というだけでは実はない。「父からお許しがなければ、だれでもわたしのもとに来ることはできない」(65節)とイエスは語っています。ユダも含んだ12人、裏切り者のユダ、そして肝心要のときにイエスを見捨てるペトロをはじめとする他の11人を、それと知って選ぶのが神の意志なのだと聖書は語るのです。

◆ ゴルゴダの丘の十字架に極まる地上でのイエスの生涯は人間にとって躓きでした。十字架に架けられる救い主などありえないことだったからです。ですからイエスの弟子たちが離れさって行くのは当たり前なのだと思うのです。しかし誰もが躓くであろう十字架こそが人間を救おうとする神の深い決意を明らかにするものであったなどということは、人が分析したり、研究を積み重ねたり、考えを巡らしたりして、人間の側から突き詰めて行って知ることが出来るのではなく、神が明らかにされることなのだとヨハネは語っています。6章44節です。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることは出来ない。」

◆ 「引き寄せる」と訳されている言葉(ヘルクエイン)は元来、舟とか車のような重い物を力一杯引っ張ることを意味する言葉です。ヨハネ福音書の21章には復活したイエスがガリラヤ湖で漁をしていた7人の弟子たちに姿を現し「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば魚がとれるはずだ」と語った。弟子たちが言われる通り網を右側に打ってみると、魚があまりに多くて、とても網を舟に引き上げることが出来なかった。そこで網を陸に引き上げると153匹もの大きな魚で一杯であったという出来事が語られています。この物語の中で「引き上げる」と書かれている言葉がやはり「ヘルクエイン」です。それは力の限りを尽くして漁師たちが魚で一杯の重い網を力を合わせて引っ張っているという状況を表しています。

◆ 6章ではこの言葉を「神が引き寄せる」という文脈の中で用いることによって、人を裁くのではなく、赦し招こうとする神の意志がいかに強いものであるか、人間に対する神の呼びかけと招きがどんなに真剣なものであるかを強調しています。同時にまた、人が神を知るのは、人間が探求心を深めていくことで発見したり、知るというのではなく、神が人を引き寄せ自らの意志を明らかにされることによるのだというのです。

◆ イエスは自らを「天から降って来たパンだ」と言い、このパンを食べ、血を飲むことが神を知ることなのだと語りました。これを聞いたユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めたとありますが、一方的な繋がり、自分の側からだけ見たり、評価したりしていると本当のことが見えず、どこかに見落としがあったり、誤解があったり、つまずきが生まれたりもします。私たちは固定的な見方にこだわりすぎているのかも知れません。だからしんどくなって「離れて行きたい」と思ってしまうのではないか。イエスは信じない者、裏切る者、躓いてしまう者をはじめから分かった上で呼びかけ、選び、招いて下さっているのですから、「実にひどい話だ」などと言わずに、その時その時のわたしたちを引き寄せて用いてくださる神様の招きに「お任せ!」という生き方をしてみたら、どんな世界が見えてくるか、少し試してみてはどうでしょうか。

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