SSブログ

2015年8月30日(㈰)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.8.30   ルカによる福音書14:15-24 「2度目の招待」             

◆ 聖書では、神と人との交わり、神の働きを人間が体験するという大事な出会いの体験が、しばしば食事の場面に象徴されて語られています。今日の箇所もイエスが宴会の食事を素材にして語ったたとえ話の一つです。場面は、ある安息日にファリサイ派の議員の家にイエスが食事に招かれて出かけた時のことです。その席でイエスはひとつのたとえ話を語りました。その筋立ては一つの事件といってもいいような内容です。ある裕福な人が大宴会を催そうと思って、あらかじめ大勢の人に招待状を送り、準備を進めました。招かれた人たちは喜んでこの招待を受けると返事をしました。そして当日になって、「さあどうぞ」と使いを出してみると、招待されていた人たちがいろいろと理由をつけて、誰一人、出席しなかったというのです。ある人は畑を買ったばかりなので見に行かなければならないと言い、ある人は牛を買ったのでその面倒を見なければならないと言い、またある人はちょうど婚礼をあげたばかりで差しさわりがあると言って招待を断ります。ここに挙げられていないその他の人たちも、宴会に出かけられないあれこれの理由を挙げたのだろうと思います。 主人が怒るのは当然です。その結果どうなったのかと申しますと、思いがけないことに、このような大宴会にはとても招待されるはずがないと皆が考えていた人たちが招かれたというのが、このたとえ話の大筋です。

◆ 当時、このような盛大な宴会を開く場合には2回にわたって招待が行われていたことが、このたとえ話から分かります。1回目の招待状を送り、出席の返事をもらった人たちに、宴会当日、準備ができた頃に、再度使いを出して、出席を促したのです。1回目の招待を受けたときに断わるというのは当然ありえることですし、それは何も失礼なことではありません。しかし1回目の招待を受けた時に「出席する」と答えておきながら、いざ当日になって招きを断ることは失礼なことです。主催者は出席を前提に準備を進めているからです。

◆ 2回目の招待のために出かけていた僕たちが帰ってきて主人に報告したところから、このたとえ話のさらに驚くべき第2部が始まります。招待を受けていた人たちが皆、次々に断ったという尋常ではない拒絶に対して尋常ではない招待がここから展開されるからです。僕の報告を聞いて主人が怒ったのは言うまでもありません。そしてどうしたか。招待した客が誰も来ないのですから、中止にして不思議はありません。ところがこの主人は僕にいいつけて、町の広場や、路地へ出ていって、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさいと命じます。主人が新たに招いたこれらの人々は、当初から、誰か欠席者が出た場合には、代わりにこの人をとリストアップされていた人たちと言うわけではなさそうです。これは尋常ではない招待です。たとえ話を聞いている人たちも、なぜそんなにまでしてこの宴会を開かねばならないのかと、その理由を計りかねる話の展開です。しかも招待はこれで終わったのではありません。さらに続くのです。まだ席が余っているからというので、今度は通りや小道にまで出ていって、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれというのですから、ここまでくると、意地になっているとしか思えません。

◆ イエスはこのようなたとえ話をして、何を言おうとしたのでしょうか。このたとえ話をイエスが語ることになった直接のきっかけは、ファリサイ派の議員の食事の席に出席していた一人の人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と、自分は神の国の食卓に招かれて食事をすることは当然できるかのように思いこんで、いい気になって発言したことにあります。宴会をめぐって、はじめの招待客が皆、どたんばで出席を断るという尋常ではない拒絶と、それに代わる、これまた尋常ではない招待の場面は、少なくとも少しばかりの改善とか、ちょっとした目的の変更ということではなく、生き方そのものを根本的に転換させることを求めているものです。神の国の晩餐の席への招待は、私たちの感覚からすれば尋常ではない招待のされ方をするのだということです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と誰かが言うのを聞いたとして、その時私たちはどう思うでしょうか。私はちゃんと招かれる、私は大丈夫、と密かに思っているはずですし、疑いなくそう決め込んでいるはずです。その上で他の人の品定めをしているのではないでしょうか。「あの人はいつも人の悪口ばかり言っているから、とうてい招かれない」とか「この人はこの点を改めればもうちょっとで大丈夫だ」とか、あたかも自分はいろんな課題をすでにマスターしていて、今度は誰かを見定める審査委員でもあるかのように他人の評価をしています。そのような私たちの心に向けて、イエスはこのたとえ話を語ったのです。

◆ 1回目の招待で味わうのは感動です。神の国の宴会、そのような席に自分も招かれたという感動です。2回目の招待で問われるのは応答です。さあ用意ができました。出かける者になってくださいと、いざ求められたとき、応答するのかどうかが問われます。応答のない感動は、短い時間の心の高揚にしかすぎません。心が揺り動かされる・・・・すなわち「感動」と私たちが言い表すその体験は、2回目の招待を受けるのです。例えばひとつの出会いの出来事があり、「あああんな生き方はすてきだな、あんなふうな命の用い方があるのか」と思う。それは感動です。1回目の招待です。しかしこの体験が自分にとって本当に意味あるものとなるのは、自分も命の用い方を変えてみようという促しとなり、新たな方向へと1歩を踏み出すことにおいてです。2回目の招待はその1歩を私たちに問うのです。誰でも感動は求めます。しかし2回目の招待「さあ用意ができました。出かけてください。」という招きに対しては、いや畑を買いましたから、いや牛を飼いましたから、とあれやこれやの言い訳をして結局で出かけないのです。「私にはとてもあんな生き方は無理だ。もう今さら何かやっても何も変わりはしない。現実は甘くない」という投げ出し、あきらめも招待を断る理由にしばしばなります。自分はそのとき踏み出さないで、招待を断っておきながら、でも思いがけない人が出かけていって宴会を喜び楽しむ姿を見て、「ああ私も行けばよかった」と悔いる。そのような体験は誰にも、いくつもあるのではないでしょうか。

◆ 神の国は宴会にたとえられている、このことを確認したいのです。お品書きに譬えられているのではありません。レストランのメニューを並べたショウウインドウに譬えられているのでもありません。宴会の食事の席に譬えられているのです。宴会は出かけていかなければ意味のないものです。食事は食べなければ命を育むものにはなりません。 この当たり前のことをイエスは語るのです。「今さら何をやっても変わりはしない」と引っ込んでしまう。その時、2回目の招待は届くのです。臆してしまう私たちを神はあきらめることなく、投げ出すことなく、招待し続けていて下さるのです。さあ、私たちはこの2度目の招待にどう答えるのでしょうか。

2015年9月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年9月13 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第17主日
説 教:「人を見下ろさない生き方」
 牧師 望月修治
聖 書:コロサイの信徒への手紙
  3章12~17節(新約p.371)
招 詞:ルカによる福音書15章22-24節
讃美歌:25、19、437、529、91(1番)
交読詩編:37;23-29(p.40下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。
9月よりこどもの教会の礼拝が再開しました。あわせておいでください。
季節の変わり目ですので、どうぞご自愛ください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。