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2020年12月13日(日)主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2020年12月13日(日)
降誕前第2主日
説 教:「いにしえの先駆者」
     牧師 望月修治

聖 書:士師記13章2〜14節
招 詞:フィリピの信徒への手紙4章6〜7節
讃美歌:25, 236(1番・4番), 241(1番・2番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2020年11月29日(日)説教要旨  [説教要旨]

説教要旨2020.11.29 イザヤ書2:1-5 「山の上の神の家へ」   望月修治

◆ 今年もアドベント・待降節を迎えました。今日から四週間、クリスマスに向けての旅が始まります。福音書記者のルカは、天使ガブリエルがダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるマリアのところに遣わされ、「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と告げたと語っています。マリアは戸惑いの中で天の使いのお告げを聞きます。そしてこう応じます。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに」。マリアは人間として当然持つであろう疑念を生々しく明らかにしています。その上で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白します。この場面はただ事ではありません。婚約中の女性が、婚約相手以外のこどもを身ごもるということは、とんでもないことです。当時のユダヤの律法の定めによれば、マリアは相手の男性を探し出されて、一緒に「石打の刑」に処せられねばならない立場に立たされることになります。マリアには全く身に覚えのないことなのに「石打ち刑」に処せられてしまう、そんな理不尽な運命が待っているしか思えない。けれども受け入れましょうとマリアは言うのです。「みこころのままに」。このマリアの態度を、それは神の与える定めに従順に従う人の姿として、信仰者の模範として読まれてきたことが多いように思います。他人事なら容易にそのように言えるし、受けとめ「素晴らしい!」と称賛することもできるでしょう。しかし我が身にそのようなことが起こったら、どうでしょうか。自分が当事者であったら、どうでしょう。「みこころのままに」とそう簡単に言えるものではありません。誰だって逃げ出したくなります。そんなことはご免こうむりたいはずです。

◆ 少し唐突かもしれませんが、ビートルズの曲に「Let It Be」という作品があります。1960年代、イギリス・リバプール出身の四人組のロックバンド・ビートルズの曲は世界を席巻しました。彼らの曲は主にジョン・レノンとポール・マッカートニーの二人が作りました。「Let It Be」はポール・マッカートニーの作品です。そして彼の楽曲の中でも最もよく知られたナンバーの一つです。
「わたしが苦しみに出会うとき/母マリアが現れて/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/“Let It Be”(みこころのままに)
 暗闇の中に包まれてしまう時/彼女はわたしの前に立ち/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/
“Let It Be”
 すべてはみこころのままに/知恵ある言葉をつぶやいてごらん/“Let It Be”」
この歌に登場する「Mother Mary」(母マリア)は、イエス・キリストの母となったマリアでもあるのですが、同時にそれはポールの母親の名前でもありました。そしてこの歌のタイトルともなっている、リフレインの「Let It Be」という言葉は、幼子イエスの懐妊を知らされた時、マリアが言った言葉「お言葉どおり、この身になりますように」(Let it be to me, as the word of you)から取られたものです。

◆ 天の使いから 「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられたマリアはあきらかに戸惑っています。「どうしてそのようなことがありえましょうか」というマリアの言葉には、そのような運命を背負わされることを拒否したいという思いも宿っているように思えます。けれどもさらに天使から「聖霊があなたに降り、あなたは身ごもったのだ」と告げられると、マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と応えるのです。「どうしてそんなことが」と疑い、拒否感を強く抱いていたマリアです。その彼女が、天使の言葉を聞いて、何の不安も、疑いも、戸惑いもスッと消えて、気持ちを切り替えられたのでしょうか。もうしそうであったのなら「従順な信仰者の模範だ」と言えると思います。しかし一方、もしそうであるなら、このクリスマスの物語から私たちは何も学ぶものがないことになってしまいます。なぜなら私たちは誰一人、そんなに簡単にすべてのことを「みこころのままに」などとは言えないからです。マリアが何ひとつ迷うことなく信頼に溢れて「みこころのままに」と言ったのなら、確かに模範的ではあります。しかし私たちにとってはあまりにも完璧でありすぎて、それゆえかえって遠い存在になってしまうのです。

◆ そうではなかったのだと思います。マリアは心から喜んで「お言葉どおりに(Let It Be)」と言って受け入れたのではなく、心のどこかにためらいや疑いを抱き、不安や揺らぎを抱えながらの「Let It Be」だったのではないか。マリアの中から疑いが消えたのではないのです。疑いはあり続けているのです。「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」といくら天使に言われても、この時のマリアに、それが本当かどうか、真実かどうか、確かめようはないからです。疑いは消えない、不安は解消されない、自分の中で納得しきれてはいない、その上での「お言葉どおり、この身に成りますように」(Let It Be)なのです。洗礼を受けるとき、Ⅰから10まで分かって洗礼を受ける人がいるでしょうか。聖書の世界、神様の働きを分かり切ることなど人にはできません。「もうこのへんでいいだろう」と自分の思いに区切りをつけて洗礼を受けるというのが、私たちの正直な姿だと思います。信ずるということは、分かるか分からないかという次元で計るのではなく、決断するかしないかという選択です。

◆ ところで、本日の聖書日課の箇所はイザヤ書2章です。預言者イザヤが活動したのは紀元前8世紀後半のイスラエルです。当時イスラエルは北と南と二つの国に分かれてしまっていました。ヒゼキヤという人物が南王国の王であった時に、都エルサレムはアッシリアの軍隊に包囲されました。ところが一夜のうちに18万5千人のアッシリアの軍隊が死体となり、アッシリア軍は包囲を解いて帰国した、という奇跡的とも言える事件が起こったと聖書は伝えます。危機を脱したエルサレムの人々は、そのことでおごり高ぶりました。その現実を見て、イザヤは人々が神を捨てて、人間に支えを求めていると3章で語っています。イスラエルの民が取り戻さなければならないのは3節「主の山に登り、ヤコブの家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」ということだとイザヤは語りました。「主がわたしたちに示される道」それが救い主イエスであったのだというのが聖書のメッセージです。

◆ ただし「主が示される道」である幼な子イエスの誕生、クリスマスの出来事はマリアだけではなく、関わったいずれの人にも戸惑いと不安と恐れを抱かせたのです。それはわたしたちの現実でもあります。不安や恐れを覚えて逃げ出したくなる、そういう気持ちを人は抱きます。抱くけれども、それでも「Let It Be」とつぶやくことができると告げるのがクリスマスなのです。できることなら我が身に起こってほしくない、ご免こうむりたい、逃げ出してしまいたい、でも投げ出したら何も始まらない、何も変わらない。そんなときわたしたちを支え、背中をそっと押してくれる祈りの言葉があります。それが「Let It Be」「神さま、あなたのみこころのままに」です。

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