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2020年1月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2020.1.26  ヨハネによる福音書 2:1-11     「ぶどう酒がなくなりました」(髙田)               
◆ 毎年、年明けからイースターまで、わたしたちは福音書の一つをガイドに、パレスチナを旅する。今年はヨハネ福音書である。象徴を用いた話が主軸にあるこの福音書には、しかし、他の福音書にはない物語や、目撃者でなければわからないはずの細かく具体的な情報が記されている。例えば、他の3つの福音書では、弟子達の召命の物語はガリラヤの湖を舞台に語られる。対して、ヨハネ福音書でその舞台は、洗礼者ヨハネの宿営地だったベタニアである。弟子達は漁師とは記されず、むしろヨハネの活動、荒れ野での共同生活に参加していたもの達である。イエスもまたこれに参加していた。

◆ ヨハネ福音書を読む時には、一方で独自の神学思想、神の子としてのイエス理解についての語りを見据えながら、所々に加えられた歴史的事実についての報告をより分けていくという目が求められるわけだが、「カナの婚礼」の話はどうだろうか。この話は1章後半の弟子達の召命の話に直接つながっている。この一続きの物語を振り返ってみたい。

◆ 1章19節で洗礼者ヨハネが登場し、29節で「その翌日」と日が変わり、イエスが登場する。そして35節で「その翌日」に、洗礼者ヨハネと二人の弟子(アンデレと名を語られない目撃者)が登場する。その日のうちに、アンデレはシモン・ペトロをイエスのところに連れて来る。これが、話が始まって三日目のことである。そして43節で「その翌日」、イエスはガリラヤへ行こうとする。ガリラヤのベトサイダの出身のペトロとアンデレ、これに同地出身のフィリポが加わり、最後にガリラヤのカナ出身の(21.2)ナタナエルが加わる。これが四日目の話で、この日にガリラヤに向けて出発した。そして、「三日目に(2.1)」と続く。四日目から三日目、トータルで話の最初から六日目となる。

◆ その婚礼にはイエスの母マリアとイエスの兄弟がいた。婚礼は通例、随分前から決まっていて準備されるものであるから、イエスがベタニアを離れてガリラヤに来たのは、この婚礼に出席するためだと考えることができる。ベタニアからカナまでは146kmあり、丸二日と少々でこの道程を歩くのは無理だと考えざるを得ない。そうすると「三日目」は何かの象徴的な数字だろうか。「三日目」といえば復活だが、他にも、出エジプト記でエジプトを脱出したモーセがシナイ山について、神が現れたのが「三日目」である。

◆ ならば六日目にカナに到着し、そこで最初のしるしが行われたというのは、著者の設定であるのかもしれない。この六日が天地創造の六日に対応しているとする象徴的解釈がある。著者は旧約聖書の記事を念頭に置いて、この「最初のしるし」をそれらに類する大いなる出来事として印象づけようとしているのかもしれない。「三日目」に栄光が現されるというのは、復活の出来事を先取りでもある。「わたしの時」は物語の最後の十字架と復活において来るわけだが、神の子イエスが居合わせるなら、その栄光は思わず溢れ出て先取り的に示されるのである。

◆ しかし、日の設定が著者の意図に基づいて操作されたものであったとしても、カナでの婚礼、イエスの母と兄弟の参加、イエスと弟子達の参加、それ自体は実際にあったこととして読むことができよう。さて、その婚礼にはイエスの「弟子たちも」招かれた。その時、イエスについてきていたのは5人である。5人参加者が増えても問題ない、大規模な婚礼だったのか。それとも、5人も参加者が増えたから、ぶどう酒がなくなってしまったのか。マタイとルカの福音書では、イエスのことを「大食漢で大酒飲みだ」とする非難が語られているから、イエス一行は結構お酒を飲んだのかもしれない。

◆ 洗礼者ヨハネの宿営地での生活は、禁欲的なものであった。その禁欲生活に限界を感じたことがガリラヤに帰る動機付けになったと考えることもできる。洗礼者ヨハネの活動の基礎にあるのは、世の終わりが近いという実感である。だからこそ、罪の赦しの洗礼を受けた後、誘惑のない荒れ野で清く生きる事が必要であった。しかしすべての福音書で、イエスは荒れ野から人里へと戻る。「神の国は近づいた」と感じればこそ、イエスは人里へと歩み入り、罪人と共に飲み食いし、病の人を癒やしたのである。そこに、荒れ野で罪人が来るのを待つ洗礼者ヨハネの活動の限界が感じられていた、それとはまったく違う神の国理解、終わりの日の理解が持たれていた、そしてヨハネの活動の参加者の中にもこれに共感するもの達がいた──これは理解のできることである。

◆ いずれにしても、イエスと弟子達は禁欲生活とは正反対の、婚礼の宴に参加することになる。しかし、あろうことかぶどう酒がなくなる。マリアはイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言った。これにイエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と冷たく答える。神の子イエスが地上での母を拒絶することで、父である神との結びつきを強調し、神の子としてのイエスを印象づけようとしている、という著者の意図として読むこともできる。しかし、イエスが5人も参加者を増やした挙げ句、禁欲生活と旅の反動からお酒を飲み過ぎたせいでぶどう酒がなくなったのだとしたら、どうか。母は、あなたたちのせいで「ぶどう酒がなくなりました」と言い、イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです…」と。これを受けて母は召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言うのだが、これも二重に読めるだろうか。つまり、神の子であるイエスが不思議な仕方でこの難局を解決してくれるという信頼からでた言葉だと読むのか、自分たちのせいでぶどう酒がなくなったのだから、責任を感じて何かするでしょうよ、と読むのか。

◆ 記事の根本にどういった出来事があったのかわからないが、ここから物語が動く。「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水瓶が六つ置いてあった」。80~120リットルくらいの容量の水瓶である。イエスはその水瓶に「水をいっぱいいれなさい」と言われる。原文で水瓶は複数形だが、六つ全部なのか、そのうちの幾つかを指すのかはわからない。水瓶について非常に詳しく、その素材が石だとまで描いた著者は、召使いたちがどのように水を汲んでいっぱいにしたのか、そのあたりは描いていない。「召使い達は、瓶の縁まで水を満たした」という結果だけが記されている。

◆ それに続く結果。水がぶどう酒に変わった。それは最初に出されたのよりもよいぶどう酒だった。そしてその結果、これは描かれていないが、ぶどう酒がなくなることで宴が興ざめになることなく、楽しい祝いが続いた。著者はこれをイエスの最初の活動として書いた。その物語が意識を向けさせるのは、荒れ野での生活と婚礼の宴の対比である。イエスはそのような宴に友として弟子達を招いた。イエスが共にいるならば、ぶどう酒は尽きることがなく、宴は続く。

◆ ここで重要なのは、召使い達がイエスに言われたとおりに、なぜだかわからないながらも瓶に水を汲んで入れたということである。著者が言いたいのは、その前の弟子の召命の物語と同じく、イエスに従ってみなさい、ということではないか。「来なさい、そうすれば分かる(1.39)」にも、「わたしに従いなさい(1.43)」にも、「来て、見なさい(1.46)」にもそれが表れていた。その旅は、カナの婚礼に向かうところから始まった。この著者と共にする旅が始まっている。尽きることのないぶどう酒の意味を確かめるためにも、その呼びかけに応えて、楽しく軽やかに、その旅の道程を歩んで行くことができたらと願う。

2020年2月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2020年2月9日(日)午前10時30分
降誕節第7主日
説 教:「遣わされた者の務め」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書8章21〜36節
招 詞:ヨブ記22章27〜30節
交読詩編:125
讃美歌:28,149,120,510,91(1番)

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