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2018年2月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.2.25 マルコによる福音書3:20-30 「赦しの分かれ道」   望月修治     

◆ もし自分の家族の誰かが、家族で皆が大事だと考えてきた生き方、価値観から外れて行ったとしたらどのような思いを抱くでしょうか。理解の外に出て行ったらどんな感情を持つでしょうか。怒り、戸惑い、悩み、悲しみ、辛さ、様々な思いに揺れ動くと思います。身内の恥だと考えて隠そうとするかも知れません。イエスの家族にとっても、長男であり生活の支え手であったイエスが、突然家を出ていき、しかも神のことを人々に伝道する旅を歩み始めたことは理解しがたいことであったはずなのです。21節に家族の困惑が記されています。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。」家を出て行ったイエスのことで「あの男は気が変になっている」という噂が広まっていることに我慢できなくなってイエスを取り押さえにやってきたのです。

◆「気が変になっている」とは原語でエクセステーです。「自分の存在から外へ出てしまう」という意味です。自分の外に出てしまう。われを忘れる。われを失う。突然家を出た後のイエスの行動が人々にそのように噂されていることは、親族や家族の者から見れば身内の恥であり、不名誉なことでした。自分の子どもが、自分たちの兄弟が、自分たちの手の中に入っていたと思っていたはずなのに、突然自分たちの外に出てしまい、不可解な行動をとり、家に帰ろうともしないような存在になったら、これは耐えられないはずです。だから苛立ち、怒り、悩みを抱いて、イエスを家族の中に取り戻すべくやってきたのです。

◆ イエスの居場所を聞いて駆けつけて来てみると、家の中では群衆がイエスを囲んで座っていました。彼らは多くの願いごとを抱えていて、次々と相談事を持ち出してきていたのでしょう。そのためイエスと弟子たちに食事の時間も与えないほどであったというのです。身内の人たちはそのイエスをとにかく自分たちの手の中に引き戻そうとするのです。31節の「イエスの母と兄弟たちがきて外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」という描写は、そのような家族の思いを写し取っています。

◆ さて、イエスを囲んでいた群衆の中には、身内の人たちとは全く違った意味合いですが、やはりイエスを引き戻そうと思っていた人たちがいました。22節にその存在が明らかにされています。「エルサレムから下ってきた律法学者たち」です。律法学者は、神のことは自分たちが一番よく知っていると思っています。信仰の世界は自分たちが支配していると思っています。何か分からないことがあったら、いつでも尋ねなさい、わたしが答えてあげるからと思っています。その彼らに理解できないことが起こっている。マルコ福音書は1章〜3章でイエスが、汚れた霊に取りつかれた人、多くの病人、重い皮膚病を患っている人、中風の人、手の萎えた人をいやしたことを記しています。イエスが次々と行ったいやしは人々の注目を一気に集めました。律法学者たちにとって、そのイエスの振る舞いは、自分たちの理解の枠を出てしまう出来事でした。彼らもイエスが悪霊を追い出し、病気の人をいやすという、現に起きていることは否定できません。けれど素直に認めることもできない。だから問題をこじつけました。「あの男はベルゼブルに取りつかれている。悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」この意地悪い解釈はねたみによるものです。律法学者たちにとって、イエスが悪霊を追い出しているのは、自分たちの力が及ばなかったことが起こっていることでした。ですから悪霊の頭ベルゼブルの力を借りたからであると解釈する以外に、筋が通る道を描けなかったのだと思います。

◆ イエスは、律法学者たちの言い分に対して、譬えを語ります。サタンであっても内輪もめがあったら困るだろうという内容です。サタンとか、悪霊とか、その頭のベルゼブルというのは人の心を乱し、分裂させるものの象徴です。そのような者たちであっても、自分の身内が乱れたら困るのではないのか、サタンもそのような内輪もめはしない、そうイエスは言ったのです。そして切り返します。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」 随分物騒な物言いです。「強い人」とは「悪霊」のことです。このイエスの言葉を読み解く鍵は1:7にあります。バプテスマのヨハネがイエスのことをこう言っています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしはかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」「わたしよりも優れた方」とは「より強い方」という意味です。「強い人」よりも「もっと強い人」が外からやってくるからこそ悪霊は追い出され、病んだ人は癒される。そしてその強い人とはイエスなのだとマルコは1章を踏まえながらここで語ったのです。

◆ こう言ってもらえればほっと安堵の息ができる、そう思います。ところがもう一つ難関が待ち構えています。28-29節です。イエスは言います。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず。永遠に罪の責めを負う。」このイエスの言葉はわたしたちに深い戸惑いを覚えさせます。イエスが十字架にかけられ死んだという出来事は、すべての人の罪に対する赦しの宣言ではなかったのか、よりによってそのイエスが「赦されない罪がある」と語るのは、どういうことなのか。同じ言葉がマタイ福音書、ルカ福音書にも記されています。マタイ福音書12:31「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」 ルカ福音書12:10「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。」福音書記者たちは、この言葉が人々に大きな戸惑いを与えることは分かっていたはずです。しかし削除せずにイエスの言葉としてそれぞれの福音書の中に書き留めました。その理由は、この言葉がイエス自身によって確かに語られた言葉であったからか、それともこの言葉はイエスの思いを伝える上で重要な意味を持っていたからか、そのいずれかです。

◆ そのいずれであったとしても、「聖霊を冒涜する」ということが何を意味しているのか、それがこの記事を読み解くポイントだと思います。聖霊を冒涜しているのは、「あの男は悪霊に取りつかれている」と言ってイエスを非難した人々です。なぜ彼らがそのように言われてしまうのか。それは彼らが神の働く領域を否定し排除していることに気づいていないからだと思います。律法学者ですから、自分たちの生き方を律法に基づいてそれなりに律してきたのだと思います。そのことへの自覚もあったと思います。しかし人の業はどんなに優れていても、そこに人の思いだけではなくて、外からの力を取り次ぎ、重ねて行くことによって実りを得ることができるのです。そのことこそ私たちが忘れてはならないことであり、イエスと出会い、神を知って生きることの具体的な形なのだと思います。神の働く場をどんな人との間にも用意し,そこに神を迎えながら関係を作り、いろいろなことに一緒に取り組んで行く。そこにこそ信仰を持って生きる者の独自性があり、豊かさがあるのです。いろんな奉仕をする、いろいろな働きをする、それらはキリスト者でなければできないというものではありません。キリスト者でない人も同じような働きを、むしろもっと踏み込んだ働きを担っておられる方がたくさんおられます。私たちがキリスト者としていろいろなことに取り組んで行く、その働きは何が違うのか。働きを担う時に神が働く場をちゃんと備えていろいろなことに向き合い、取り組んで行く。そのあり方にこそ信仰をもって生きる者の独自性、豊かさがあるのだと思います。人と人との関係の凝りを解きほぐすためには、神の働く領域をお互いの間に備えることが大事なのだと聖書は説くのです。それが聖霊を冒涜しない生き方です。

2018年3月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年3月11日(日)午前10時30分
復活前第3主日
説 教:「くり返される」
柴田野ゆり神学生
聖 書:ヨハネによる福音書21章1〜14節
招 詞:出エジプト記24章15〜17節
交読詩編:27;7-14
讃美歌:24,60,303,524,91(1番)

礼拝場所:静和館4階ホール

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