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2017年5月28日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.5.28  ルカによる福音書24:44-53「焼き魚と天への道」   望月修治     

◆ ルカによる福音書は、旅をするイエスに焦点をあてて生涯を描いています。ユダヤの空の下で伝道の旅をするイエスに、ルカは救い主としての姿を見出しました。ルカ福音書におけるイエスの旅の物語は4章16節から始まっています。そこには、イエスが自分の故郷であるナザレの村の会堂で、安息日にイザヤ書の言葉が記された巻物を渡され、ある箇所を取り上げて説教をしたという出来事が記されています。その記事によりますと、ナザレの村人たちは、最初イエスの話に感動して聞き入っていたのですが、イエスが、ある昔の出来事を取り上げて、ユダヤ人は誰も清くされなかったという話をし始めると、一転して激しい怒りをあらわにし、イエスを殺そうとしたというのです。危うい所で、イエスはその場を擦り抜けて命拾いをするのですが、ルカによる福音書によれば、これがイエスの伝道の旅の最初に起こった出来事でした。

◆ この場面はいくつかの点で、重要な意味をもっています。一つは、イエスが説教するにあたって引用したイザヤ書の言葉です。4:18-19にその言葉が記録されています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」これはイザヤ書61:1-2の引用です。イエスはこのイザヤ書の言葉を引用しながら、自らの担う務め、救い主としてのどのような働きを担うのかを語りました。人々に「解放」と「自由」を与え、「主の恵み」を告げ知らせるためであると宣言したのです。この後に続いて行くイエスの歩みは、「解放」と「自由」と「主の恵み」を、苦しむ人、悲しむ人、抑圧されている人に告げ知らせ、届けるために積み重ねられることになるのです。

◆ もうひとつのことは、「解放」と「自由」と「主の恵み」のために働くイエスのことを、最初の時から理解せず、受け入れようともせず、それどころか殺してしまおうとした人々がいたということです。イエスを十字架にかけるまで追い込まなければ収まらなかった人々の殺意、それはイエスの生涯の終わりになって突然生じたのではなく、伝道活動を開始したそのはじめから、人々の殺意に直面しなければならなかったのだとルカは記すのです。

◆ イエスの歩みは、故郷であるガリラヤの各地を行き巡る旅として始まり、やがてガリラヤからエルサレムへと向かう旅へと続いて行きます。ルカ福音書において、エルサレムの都を目指して旅をするイエスは、さながら昔話に出てくる花咲じいさんが枯れ枝に花を次々と咲かせたように、旅の道で足を踏み入れた先々で、福音という名前の花、「解放」と「自由」と「主の恵み」という神からの届け物を開花させながら旅路を歩んだと言えるのです。

◆ しかし旅はいつか終わります。イエスの旅もやがて終わる時がやってきました。イエスの旅の終着点はゴルゴタの丘に立てられた十字架でした。過越の祭で人々があふれていたエルサエレムの郊外で、ユダヤの大地を歩み続けてきたイエスの足は十字架に釘付けにされ、もはや一歩も動くことのできない状態に追いやられました。そして午後3時を過ぎる頃、イエスは息絶えました。その遺体は墓に納められ,墓の入り口は大きな石で封印されました。全てが終わった。イエスの旅はそこで終わったと誰もが思いました。しかし、それから三日目に、神はイエスを死者の中から復活させたと福音書は告げています。十字架につけられ、手足を釘付けされて、息絶え、墓に葬られたはずのイエスが、再び歩き始めたことをルカ福音書は伝えています。復活したイエスは弟子たちの所に歩み寄り、エマオの村に向かっていた二人の弟子に現れ,村までの道をいっしょに歩き、さらにその先まで進み行こうとする様子であったとルカは記しています。ユダヤの大地を旅空の下に歩むイエスは十字架を越え、死を乗り越えて、さらにその先へと歩み続けるのです。

◆ ルカによる福音書には、復活のイエスが弟子たちの間に姿を表わし、一緒に食事をしたり、手足の釘後を示して、復活を信じられぬという弟子に指を傷跡に入れさせたりする様子が描かれています。そしてイエスが天に上げられたところでイエスの旅の物語は締めくくられるのですが、しかしルカはそこで物語を閉じませんでした。イエスの旅を引き継いで弟子たちが使徒として伝道活動の旅を起こして行く様子をさらに物語るのです。それが使徒言行録です。ただしルカは、弟子たちの伝道活動の旅を語るにあたって、一つのことを確認しています。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい。」(24:49) ルカはこのイエスの言葉を福音書の終わりに書き記し、さらに使徒言行録の冒頭で、このイエスの言葉をもう一度、念押してから、弟子たちの新たな旅の物語を語り始めています。

◆ 伝道活動に歩み出す前に、エルサレムに留まるときをもつようにとイエスから弟子たちは求められたことをルカは強調しています。このことは私たちの思いを揺さぶります。弟子たちにとってエルサレムは、イエスの十字架の出来事の前と後では、全く違った意味を持つことになったからです。エルサレムの町はイエスが捕らえられ、死刑の判決を受け、処刑された所です。だから弟子たちにとっては、とてもつらい場所です。自分たちが例外なくイエスを裏切り、見捨てて、逃げ去った場所です。弱さと醜さと不信仰をさらけ出してしまった場所、それが弟子たちにとってのエルサレムです。しかしエルサレムから離れるなと言われたのだと、ルカは福音書の終わり、そして使徒言行録のはじめに記すのです。

◆ 弟子たちにとってイエスの死後もエルサレムから離れるなとは、自分たちの至らなかったことをまっすぐに見ることを求められたということです。それは勇気がいります。しかしそうすることで初めて「分かる」何かがある。イエスが伝道の旅の中で語ったこと、行ったこと、伝えたかったこと、そのことの深みが分かり始める。物事が「分かる」ということは、その人の生き方が変わるということです。一つのこと、新しいことに気づくということは、その人の生き方が変わっていくということです。人が変わるのは、何かに気づき、それを深く受けとめた時です。イエスが弟子たちに願ったのは分かることによって変わってほしいということだったのではないでしょうか。

◆ 誰でも、嘆きや悲しみ、あるいは痛みや絶望の闇をどこかに抱えて生きています。そしてその悲しみや嘆きが包み込まれるような出会いや体験を与えられることを待っています。悲しみの底でそれに共鳴し合う声や語りかけや働きが訪れるのを待っています。イエスが示した神は、助けを必要としている人間に寄り添い、その試練をいっしょに耐え抜こうとしてくださる。神が共におられるというのは、そのような働きとして私たちの思いを超えたところから届く、その時を待ってごらんなさいとイエスは促したのです。弟子たちにとって神の働きかけを待つ場所はエルサレムでした。裏切り、見捨て、逃げ去った、破れをさらけ出してしまった自分と向き合うことで、人は自らの破れを包み込む光が確かに届いていることに気づくのです。復活のイエスは「エルサレムから離れるな」と命ずることでそのことを弟子たちに示しました。

2017年6月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年6月11日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第2主日
説 教:「聖霊の証印」
牧師 髙田太
聖 書:エフェソの信徒への手紙1章3-14節
招 詞:エゼキエル書36章26a,28b節
交読詩編:99;1-9
讃美歌:29、83、352、516、91(1番)

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