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2016年9月25日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.9.25  コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:1-10「転居の知らせ」   望月修治     

◆ 人によってきっかけや手がかりは異なるのでしょうが、一つの状況、一つの現実に複数の見方を持てたとき、それまで気付けなかったことが見えてくるという体験が訪れます。その体験はひとりの人の生き方を変えます。小さな方向転換の場合もあるでしょう。しかししばしばそれは思いもかけなかった生き方の転換をもたらします。生きることについて一つではなく複数の見方があることに気付けたとき、人は救われるということを味わい知るのです。聖書の物語にはいろいろな視点の据え方、受けとめ方が埋まっていて、私たちに発見されるのを待っています。

◆ 本日の聖書日課はコリント信徒へ手紙Ⅱの5章です。パウロが書いた手紙です。この箇所にも、ひとつの新たな出来事に出会うことによってそれまでとは全く違った視点から神を発見した、その躍動する思いから紡ぎ出された言葉が語られています。パウロはいろいろなものを対比させる方法を用いて、複数の見方、複眼で物事を見ることが何をもたらすのか、どのような世界を見せてくれるのかを表現します。例えば4章では「外なる人」と「内なる人」、「見えるもの」と「見えないもの」、「一時」と「永遠」、そして5章に入って「幕屋」と「建物」といった形で、全く新しく神を発見したことを、そのことによってどういうふうに生き方が変わっていくのかということを、わかりやすく浮かび上がらせようとしています。

◆ パウロは多くの苦難を受けてきたにも関わらず、使徒であること、イエスの福音を宣べ伝える者であることから身を引くことはしませんでした。そういう生き方に触れると、それはその人の力強さとか苦難に耐えていく気持ちの持ち方、その人が苦しみや困難を乗り越え、打ち勝って福音を伝えたという受け止め方をします。しかしそれは違うのだと思います。パウロがイエスの福音を伝えることをやめようとはしなかった。それは彼が歯を食いしばって踏みとどまったということは確かにあるのかも知れません。しかしそれよりも一つの事柄を一つの見方だけに偏らずに見ることが出来るのだということを、イエスを知ることで気付かされ、体験したからだと言えます。パウロの外なる人の部分、すなわち目に見える肉体面を考えれば、まことに弱くもろい土の器であったとパウロ自身が書いています。当時パウロの年齢は60歳に近く持病をかかえ、外見は貧弱に見えた、と自分で書いているくらいですから外なる人としてのパウロは見栄えはしなかったはずです。しかし、この外なる人が衰えていく、日々、死に向かっていくということは現実としてあるのですが、「内なる人」は日々新たにされていく(4:16)、と書いています。「日々新たにされる」とは「いままでになかった、質的な新しさを人生において与えられる」という意味での変化を表します。質的に新しい視点を自分の人生にもつことが出来る。そしてそこから自分の人生を受け取り直して、歩むことが出来るという意味での質的な変化がパウロの内側では起こっている。その躍動感を「内なる人は日々新たにされていく」と表現したのです。

◆ 肉体的には老いを迎えていますが、心の中では成熟していくと語ります。外なる人としての肉体のみをみて人間のことを考えるならば、年を重ねれば重ねるだけ衰えゆくことへの憂いが生じますが、しかし命の営みは地上における死でピリオドが打たれるわけではなく、次になお文章が続くことを示すコンマに過ぎないのだという視点がパウロの中には息づいていったのだと思います。死の向こうの未来に目標を置いて生きることがキリスト者となったパウロの生き様です。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(4:17)という言葉はそのパウロの生き方を的確に示しています。ただこの受けとめはパウロ自身がいろいろな苦難を味わうことなしには得られなかった新たな視点だと言っていいと思います。

◆ 人間にとって最大の問題は死をどう迎えるかということです。この死の問題もコリントの信徒にとって大きな問題であり、パウロは第2の手紙でも積極的に取り上げています。5章の初めにおいて、パウロは死について書いています。多くの人は死を苦しみや悲しみとしてとらえますが、パウロの場合は5:8「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と書いています。この書き方はむしろ死を願っているとも読めます。パウロは肉体から離れる死を分かりやすく説明するために住居と衣服を例にとり、死とは仮の住まいである幕屋(テント)から去って、人手によらない住居に移ることだと説明しています。遊牧民が多い当時の世界では、テント生活がごく身近にあった生活の仕方でした。移動の際はテントをたたんで巻いて移動しました。こうした簡便で、手軽な地上の住みかのほかに、人は死後、神の手によって建てられた天にある永遠の住みかに転居するのだ、という書き方でパウロは人間の死、そしてその先にある世界というものを語ってくれています。

◆ 5:4では「天から与えられる住みかを上に着たいからです」という言い方をしています。第1の手紙15:53でも「この死ぬべきものが死なないものを必ず着る」とか「この朽ちるべきものが朽ちないものを着」るという表現をしています。今日の箇所で「着る」というのは、テント住まいすなわち地上での生活を裸の状態と考えることからきています。裸のままではなく、どうしても衣服を着たいという表現で、パウロは神の手による永遠の住みかに転居するという命の営みを「天から与えられた住まいを上に着たい」という表現で表しています。

◆ パウロが地上における生と、死を境にしてその先にある命の営みについて受け取りなおして、それをいろいろなものを対比しながら語る、受け取り直すことが出来る、それが信仰を持って生きる、あるいは救われるということの中身だと思います。神を信じ、聖書の世界を受け入れたらどういう変化が私たちの上に起こるのか。救われるということはいったいどういうことなのか。それは私たちが今生きている地上での人生に対してひとつの見方だけでなく、もっと違った視点をたてることが出来ることなのです。人の営みというのは死がピリオドではなくてあくまでも句点であって、その先に神が備えて下さる建物があるというのです。そして人はそのような建物に住むという生き方へと繋がれていくのだということ、すなわち仮の幕屋から永遠の住みかに転居するという知らせを、神はイエスの十字架の出来事を通して私たちに届けて下さったのです。自分が生きている人生を肯定するという生き方は人生に対して複眼の視点をもてたときにこそ豊かに見いだすことが出来るのだと思うのです。聖書の世界、信仰の世界とはそういうたくさんの視点を示して、私たちがそのことに気付いて生きていくことができるように一所懸命語りかけてくれている世界です。聖書と出会う、聖書の物語を読むということは、今までどうしても見えなかったこと、自分がどこに立っているか掴みきれなかったことが腑に落ちる、はっきりと見える、納得できる、こう生きたらいいのだという道筋が鮮明に見え始めていく、それが救われて生きると聖書に語られていることの中身です。この転換が起こるきっかけは人によって異なるでしょうが、あるひとつのきっかけで、命のいろいろな用い方、生き方がはっきり納得できる形で見えてくるということを、聖書を通して体験するのです。

2016年10月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年10月9日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第22主日 神学校日
説 教:「一匹と九十九匹と」
岡﨑祐貴神学生
聖 書:ルカによる福音書
15章1~7節
招 詞:マタイによる福音書11章28節
交読詩編:23
讃美歌:24、461、377、120、91(1番)

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