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2015年1月31日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.1.31 ヨハネによる福音書5:1-18「助け人がいないのです」   望月修治    

◆ ファリサイ派の人々や律法学者がイエスに対して反感を抱いたのは安息日にイエスが示した振る舞いに原因があることが少なくありません。今日の箇所にも安息日にイエスとユダヤの人々との間に起こった軋轢が記されています。しかもそれは尋常ではない反感を生んでいます。18節に記されています。「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」 激しい反発です。ユダヤの人々はイエスが安息日に行った振る舞いになぜこれほど反発し憎しみを抱いたのか。これはユダヤの人々が一方的にというわけではなく、実はイエスも、あたかも火に油を注ぐかのように、安息日についてはラディカルな発言をし、人々の反発をあおっているようにも見えるのです。

◆ そもそも安息日になぜそこまでこだわったのでしょうか。ユダヤの人々も、そしてイエスも、です。安息日は、もともとは古代イスラエルの農民の農耕生活における休息日として定められたものです。 時代が下って紀元前6世紀、捕囚の地バビロニアで作られた創世記1章の天地創造の物語に、神は六日間にわたって天地万物を創造し、第七日目に休み、この日を「聖別された」と物語られています。これを受けて、安息日についての律法が生まれ、週の第七日目は「あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と定められることになりました。ユダヤの律法の基本となっているのはモーセの十戒です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という宣言から始まる十戒はまことにシンプルな10項目の掟でした。しかし時代が下り、多様化して行く人々の暮らしに適用するため律法はさまざまに解釈され細則が作られました。イエスの時代の律法学者たちは、「安息日にいかなる仕事もしてはならない」という掟についても、安息日にしてはならない「仕事」の範囲をこと細かに定めました。

◆ イエスが安息日に行った振る舞いはこの掟を破るものでした。今日の箇所もそのひとつです。エルサレムの町の「羊の門」と呼ばれている場所の傍にべトザタと呼ばれた池がありました。長方形の池が北と南と二つ重なるように並んでいて、そのふたつの池をぐるりと囲むように回廊があり、きちんと建物が造られていたので、雨露をしのぐことも出来ました。そしてここは一種の病院であったと思われます。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていたと記されているからです。この場所はいつの頃からかひとつの言い伝えとセットで人々に覚えられて行くようになりました。時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても癒されるという言い伝えです。
 池の水が動いた時に最初に池に入るとその人の病気が治ると言われていたのだとすれば、動ける病人でないとここにいても助からない。しかもまっ先に飛び込まなければいけないというのですから、ここの病人たちは安静どころではなかったと思います。水が動くその瞬間を見逃さないように神経を張りつめていなければならない。しかも周りは全てライバルであり、敵です。隣の人が癒されると自分は癒されないということになるからです。体力のない人はいつも遅れを取ってさらに弱って行くというしわ寄せの構図です。

◆ ある日イエスはこの場所を訪れました。そこには38年間も病気で苦しんでいる人がいました。38年にも及ぶ患いはこの人の心身を疲れ果てさせてしまっていただろうと思います。「良くなりたいのか」とイエスは語りかけました。それに対するこの人の答えはイエスの問いかけへの直接の答えではなく、38年間の患いによる孤独やあきらめを訴える言葉でした。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」。「良くなりたい」というのは言わずもがなのことです。しかしそう答える前に、彼が病を負い刻んできた38年間の積もり積もった思いを聞いて欲しかった。それを語り、心の外にあふれ出させてしまわなければ、「そうです、良くなりたいのです」という思いは言葉にならない。「直りたい、良くなりたい」という願いは、38年間ことごとく押しつぶされてきました。「水が動くとき、わたしを池に入れてくれる人がいな」かった38年間を聞いて欲しかった。聞いてもらって、聞いてもらって、受けとめてもらえたと実感できなかったら「良くなりたい」という言葉は外に出なかったのではないか。

◆ イエスはこの人に向かって「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と語りかけました。するとこの人はすぐに良くなって床を担いで歩き出したと記されています。この時イエスが語りかけた言葉に興味を引かれます。38年間の患いからの癒しをもたらすのであれば、「起き上がりなさい。そして歩きなさい」と言えばよいはずではないでしょうか。けれどイエスはそれだけではなく「床を担げ」と言っています。「床」とは38年間この人を縛り付けていたものです。呪いながら、あるいは憎みながら、諦めてしまっていた状態を象徴しているのが「床」です。その「床」を自分で担いで歩けというのです。これは神が人の現実に働きかけるとき、何が起こるのか、どういう生き方の転換がもたらされるのかを物語っているのです。神がもたらす救いとは、それまでの現実を忘れたり、逃げることではない。何も変わらないと諦めて現実と妥協してしまうことでもない。そうではなく自分を縛り付けていた現実に向き合い直し、逆にそれを担って歩き出そうという転換がその人にもたらされることなのだとこの物語は告げています。

◆ この出来事を見ていたユダヤ人たちはひとりの人が癒されたことを喜んではいません。そのようなことは枝葉末節であるかにように気にも留めず、時が安息日であったということを怒るのです。イエスが38年間も病気で苦しんでいた人に「起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい」と語り、癒したのは安息日であったということを裁くのです。彼らは言い放ちます。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 安息日に病気で苦しんで来た人を癒す、それは働くことを禁じた安息日の掟に反すると人々は見なし、イエスを迫害し始めます。それに対してイエスはこう答えました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 この言葉が意味することは何か。安息日にもう一度神が働き出したということです。その理由は何か。安息日が光を失っていたからです。安息するのは何のためか。それは人が仕事を休んで神を礼拝し、神のなさったことへの感謝をささげるためです。しかしいつしか、その本来の意味が見失われ、仕事をしないということにのみ注意が集まり、互いに人を監視し、裁き合うことが起きていました。違反者は処罰される。そのような日になっていた安息日にイエスは立ち向かいました。本来の安息を取り戻すために、神は今働いている、だからわたしも働くのだとイエスは語ったのです。

◆ 宗教改革者のカルヴァンは語っています。「安息日とは、わたしたち自身のうちに神を働かせるために、わたしたちが自分の業を中止する日だ。」

2015年2月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年2月14日(日)午前10時30分
復活前第6主日
説 教:「ささやき」  牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書4章1~11節
招 詞:ヘブライ人への手紙4章12~13節
讃美歌:24、129、424、530、91(1番)
交読詩編:91;1-13

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
どなたでもお越しください。

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