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2022年10月30日(日)の説教要旨 [説教要旨]

創世記9章8~17節 「神義論と自己肯定感」 高田 太

★ 明日は宗教改革記念日である。1517年の10月31日、カトリック教会の万聖節の前日に、ルターが九十五箇条の提題を掲示し、そこから宗教改革が始まったという物語に基づいて、これを記念している。何が改革されたのか。一つは、会衆が礼拝に能動的に参加するようになったと言われている。人々が理解できなかったラテン語で行われるミサを「見に行く」というのから、説教を「聴きに行く」礼拝になり、そして、讃美歌を「歌いに行く」礼拝になったという。ルターは聖書をドイツ語に訳し、ドイツ語の讃美歌をつくった。聖書の言葉を理解して、その解き明かしである説教を聴き理解することが礼拝の中心になり、加えて、日常語で讃美歌を歌うことで、会衆が礼拝に能動的に参加できるようになった。

★ 説教の聴き方においても、能動的な説教の聴き方というのがあるだろう。一方的に、受動的に聞くというのでは、ミサを見に行くのとそんなに変わらない。自分が心地よいと思える意見や、語り方だけを受動的によいと思うのではなくて、稚拙な語りからでも、何かを得ようと能動的に聴きに行く姿勢、そこで神がどう働いているのかを読み取ろうとする姿勢もあるのではないか。

★ わたしは、初任地の大津教会でも伝道師として牧師交替を経験したが、望月先生(同志社教会の前の先生)の次の先生は、まったく望月先生とスタイルが違っていた。だから、望月先生の影響を受けていたであろうわたしの説教のスタイルを継続して、意味があったと思っている。伝道師の間は、色気を出さずに、面白くないと言われても、聖書の講解の説教をせよとの教えもあるが、それは自分の学びのための説教とも言えるかもしれない。でも、伝道師は教会が育てるのだから、そういう説教を聴くことも必要だし、それこそ聞く側のスキル、熟練、練達が求められていると思ったりもする。そう考えてみると、多くの方の忍耐に支えられてきたと感謝が込み上げてくる。

★ それはさておき、主任牧師と伝道師でそういう体制になると、だんだんとそれぞれの守備範囲ができて、教会全体としてはOKとなったりもする。わたしは、こうして同志社教会でまた牧師交替を経験しているが、何というか、菅根先生の説教のスタイルと、自分のそれがかぶっているような気がした。もちろん、力量の点で菅根先生とは比べものにならないが、方向性は同じというか、ご着任なさって何度か説教を聴く中ですぐにそう思わされた。そこで、ちょっとキャラを変えてみようと思って、今回の説教題にしてみた。主任牧師ではない立場を続けて来ているから、その立場なりの感覚があるのか、しばらく自分の守備範囲を模索しようと思っている。

★ 本題に入っていきたい。ノアの洪水・箱船の物語の締めくくりの箇所が与えられていた。世界を創造された神は、時を経て「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。そうして全てを洪水によって終わらせようとされた。しかし、神に従う無垢な人であったノアは神に選ばれる。そうして、箱船の製作を命じられてこれを造り、そこに多くの動物と家族を乗せて、洪水を過ぎ越す。その後、神は洪水を起こしたことを反省し、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないと約束されて、これを一方的な契約として立てられ、そのしるしに雲の中に虹を置かれた。絵本などで読むと、箱船に乗った側に立って話しが進む。しかし、箱船に乗れずに死んだ人が大勢いた。わたしたちは、自分はどちらなのかと問わねばならない。

★ ところで、全知全能の神がいながらにして、なぜ世界に悪が存在するのか、という問題がある。これを神義論と言う。かつて、そういう問題をどう考えるのかと問われて、とっさにノアの物語で結論がでているのでは、と答えたことがあった。ノアの物語は、神が悪を見過ごしておられないことを示している。しかし神は、神として、その正しさを示すべく世界に介入して悪を裁くことを止められた。一方的にそういう契約を立てられた。そうして、アブラハムの物語が始まる。ひとりの人に語りかけ、その人を導く。そのことで歴史を通して、人に人としての自由の用い方を示して、神の創造の計画を進める。旧約聖書の歴史物語はそんなふうにして進んで行く。

★ 神義論は、その神の計画の見通しがたさを自覚するとき、そのための自らの能力の不足を自覚するとき、そして、自らの罪の自覚によって終わる。神が悪を見過ごさないとした場合に、自らの内面を顧みて、少なくとも自分だけは裁きを免れることはできないのだと自覚するときに、神義論は終わる。ノアの物語はそのことを教えている。

★ しかしそうすると気になってくることがある。近年、自己肯定感が大事だと言われている。とりわけ幼少期に、非認知的能力としてのそれを養うことが、有望な人物を育成するためにも必要だと言われる。しかし、自己肯定感を目一杯育まれた人は、自分は箱船に乗れる側だと信じるのではないか・・・と気になる。他方で、自己肯定感が低いと言われるから、しばしば説教や学校の礼拝でのお話しの主題が自己肯定に向かい、「そのままでいい」と語られもする。しかし、「そのままでいい」のだろうか。

★ 罪の自覚と自己肯定感は両立するのか。これを両立させるには、神の次元の肯定を知ること、つまり、神が悪を耐え忍びながら、それでもその世界全体を良しとして肯定しておられるという視点に立つことしかないと思う。自己否定の深みで、世界を肯定することができれば、それが、その世界の一部である自己を肯定することにも繫がるだろう。そうして世界を良しとして創造された神の似姿としての自己が自覚されて、つまりは神と同じ視点を持つことができることが自覚されて、そのようにして世界を捉えて、そう捉える自己を肯定することができる。

★ ここにキリスト教的、三一思想の奥深さがある。つまり、神、世界、自己の三者の関係である。実際、神は御子において自らを否定されることで、つまり十字架で殺されることで、逆説的に世界を肯定された。罪の赦しをもたらし、自らを肯定された。その表現が復活ではないか。裁かれるべき自らの罪を自覚し、復活の命が与えられていると自覚するところで、キリスト者は深い自己肯定感を得ることができる。自己否定によって空っぽになった自らに、神は全世界を与えて下さる。そして、その世界において為すべきことを、礼拝において働く不思議な神の力である聖霊が示すのである。自己肯定感だけでなく、世界を肯定する力を、そしてその世界への信頼を、その世界を良しとして造られた神への信頼を、つまりは信仰を、この礼拝を通して共に育くんでいきたい。

2022年11月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年11月13日(日)午前10時30分
降誕前第6主日
於:静和館4階ホール
説 教:「日々、新たにするもの」
               牧師 菅根信彦
聖 書:マタイによる福音書15章1〜20節
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章13節
讃美歌:24,17(1・2・3・4節),461(1・2・3節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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