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2015年7月26日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.7.26   ペトロの手紙Ⅰ 3:13-22 「神が置いた道標」            

◆ ペトロの手紙の主題は「苦難」です。迫害を受けて苦しんでいた小アジア地方の諸教会の人たちに、「正しいことのために苦しむ」ことの意義について伝え、苦難を受けることは、キリストの苦難に参与することだと語り、信仰者を慰めて、信仰に堅く立つように励ます目的で書かれたものです。この手紙からは、アジアの諸教会が味わっていた苦しみが非常に大きなものであったことが分かってきます。紀元60年代から70年にかけてのユダヤ戦争で、ローマ軍によって都エルサレムが壊滅的な打撃を受けて民族としての存立の危機に見舞われたことで保守化したユダヤ教の人々は、キリスト教を排除する姿勢を鮮明にして行きました。
◆ 加えてパウロの働きによって小アジアの各地に設立されていった諸教会は、ローマ帝国による政策的な迫害にもさらされていきました。ローマ帝国によるキリスト教迫害は、紀元64年のネロ帝の時に始まりました。紀元80年代から90年代半ばにかけてトラヤヌスという人物が皇帝の地位にあったときには、小アジアで大迫害が起こりました。ペトロの手紙が書かれたのはおそらく小アジアにこの大迫害の嵐が吹き荒れていたときだと見なされています。
◆ そのような時代状況を押さえながらこの手紙を読んでみますと、一つの疑問が浮かんできます。なぜこんなに迫害され圧迫を受けているキリスト教の教会に、なお人が集まってきたのかという疑問です。洗礼を受けて教会に属することを、単純に「おめでとう」と言えるような時代状況では決してありませんでした。それどころか教会の集会に行けばキリスト者だと分かる。分かれば周りからは犯罪者扱いされかねないのに、なぜキリスト者になる人が絶えることはなかったのかということです。
◆ それはキリスト教会が何を土台にして存在しているのか、何を基礎としてその上に立てられているのかということに関わっているのだと思いました。18節にその土台が何であるかが記されています。「キリストも、罪のためにただ1度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」とあります。イエスの十字架の出来事が教会を支えている。イエスが十字架への道を歩んだのは、あなたがたを神のもとへ導くためであったというのです。神のもとへ導くとは、神と向き合う生き方をしてみませんかと人の背中を押すことです。
◆ ではそれは何をもたらすのでしょうか。伝道者パウロは、キリスト者となる前は、熱心なユダヤ教徒であり、その徹底ぶりはキリスト者を迫害するという行動を彼にとらせました。そんな彼が、復活のキリストと出会い、回心し、イエス・キリストの福音を伝える伝道者となった。しかし、キリスト者となった後も、パウロは自分がキリストの福音を受け入れた者としてこうありたいと思う生き方と現実の自分との食い違いに苦しみ嘆きます。ローマの信徒への手紙7:15「わたしは、自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と書いています。彼は自分がこうしたいと欲していることはしないで、してはいけないと思っていること、自分が憎むことを行っていると嘆きます。そのような自分に苦しんだ末、こうパウロは言っています。7:24「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」 この言葉には「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいること」をしてしまうことに嘆き苦しんでいたパウロが、自分の存在する意味を知って行く道筋が示されています。彼は「だれがわたしを救ってくれるのでしょうか」と問うています。そして彼は、自分は何者かという問いの答えは自分の中にではなく、他者から示されるのだということにたどり着くのです。その思いが「だれがわたしを」という言葉に示されています。
◆ 復活のイエスに出会い、そしてキリスト者となった彼は、自分が望むことは実行せず、憎んでいることをしてしまう惨めな人間であること、罪人であること、しかしそんな自分なのに担うべき務めが与えられていること、必要とされ用いられていくことを知るのです。人は誰かと出会い、向き合い、つながりの中に身を置くことで、自分は何者か、自分が存在している意味は何か、を知っていくのだということです。誰かと一緒に生きる、共に生きる、それが生きることの基本なのです。
◆ 出会いこそが人の心を揺さぶり、思いを育み、いろいろなことに気づかせ、人を変え、自分が何のために生きているかを示してくれる。だからイエス・キリストは人を神のもとへ導き、出会わせるために十字架にかけられたのだと、この手紙を記します。そしてそのことを、19節で「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教された」と表現しています。「捕らわれていた霊」とありますが、ここに、読み過ごさず思いを巡らしておきたいポイントがあります。それが20節以下に創世記に記されたノアの箱船、ノアの大洪水の物語を引用して語られています。「捕われていた霊」のことを、洪水の時に神の思いを受けとめないで箱船に乗り込まず、洪水で滅んでいった側の人たちに譬えています。そして全地を覆い尽くした滅びの洪水の水を、洗礼の水に位置づけ直して、滅びの道からの方向転換をもたらすのだと語られます。箱船に乗り込んだノアとその家族が水の中を通って救われたのと同様に、イエス・キリストの十字架と復活によって、箱船の外にいたあなたがたも救うのだというのです。
◆ ここで押さえておきたいことがひとつあります。ノアの洪水物語は旧約聖書の創世記6章から9章に記されています。40日40夜、激しい雨が降り続き、全地は水に覆われ埋没してしまった。洪水の後で、神はノアに「肉なるものすべてを二度と滅ぼさない」と約束し、洪水によって呪われた大地の回復とすべての命への祝福が語られます。物語がここで終わっていれば見事な結末だと言えるのですが、ノアの物語はそこからまだ続きが記されているのです。洪水の後、農夫となったノアがぶどう畑を作り、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、天幕の中で裸になったと語ります。酔っぱらって醜態を見せてしまうのです。その姿を三人の息子のひとりハムが見てしまいます。ハムはそのことを他の二人の兄弟に告げました。すると二人の兄弟は父の裸を見ないように後ろ向きに父に近づき顔を背けたまま着物をかけて裸を覆いました。酔いから醒めて事の顛末を知ったノアは、裸を見たハム、その息子すなわち孫のカナンを呪って「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と言ったというのです。酔っぱらって裸になっているノアの方が罪深いはずなのに、なぜか孫のカナンが呪われるというところでノアの洪水物語は終わっているのです。どう見てもこれはノアの破れです。神に命じられたとおり箱船を造り乗り込んだノアは信仰深く、正しい人というイメージを聖書は崩して物語を終えているのです。「正しい方が正しくない者たちのために苦しまれた」と言われるとき、ノアもまた「正しくない者たち」の一人なのだということです。その自覚を私たちは持ちたい。その私を許された罪人として迎え入れ、なすべき使命を与えるべく働く神の招きを受けとめたいと思うのです。

2015年8月9日(日)の主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2015年8月9 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第12主日
説 教:「目覚めていなさい」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
  12章35~48節(新約p.132)
招 詞:エゼキエル書12章26-28節
讃美歌:27、208、326、440、91(1番)
交読詩編:121(p.141上段)
司式者:横井和彦、奏楽者:鴛淵紹子

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。
また、8月はこどもの教会は、お休みです。
暑い日が続いておりますので、御自愛ください。

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