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2020年2月23日(日)の説教要旨 [説教要旨]

20202.23 ヨハネによる福音書6.1-15 「限界の戸が開く」 望月修治    

◆ 福音書にはイエスによる奇跡物語が36も記されています。本日の聖書日課である「五千人に食べ物を与える」という物語もその中の一つですが、奇跡物語の中で唯一、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この4つの福音書のすべてに登場する物語です。舞台はガリラヤ湖の湖畔からそう遠くない所にあった山というよりもおそらく小高い丘です。イエスは弟子たちとその丘に登り、そこに座っていました。その後を追うように大勢の群衆がやってきました。過越の祭りが間近であったというのですから、このときイエスの後を追って来た大勢の群衆の中には、エルサレムへ向かおうとしていた巡礼者たちも多くいたはずです。イエスはこの大群衆を見て食べ物のことを心配しています。群衆の数は「男だけでも五千人」であったと記されています。その大群衆がお腹を空かせてきた。食事の手配りをしなければならない。そこでイエスは弟子のひとりフィリポに言います。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」場所は人里離れた山、小高い丘の上です。そのような場所で五千人分もの食べ物をどう調達するのか。

◆ ここでひとりの少年が登場します。少年は大麦のパン五つと魚二匹を持っていました。そのことをイエスに報告したのはアンデレという弟子です。5千人分の食糧が必要という状況がある。それに対して手元にあるのは大麦のパン5つと魚2匹、この二つが意味することは何か。アンデレの言葉が端的に示しています。9節後半です。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 ひと家族の食事なら「大麦のパン五つと魚二匹」で何とかなります。けれど五千人の食事となれば、「大麦のパン五つと魚二匹」では何の役にも立ちません。ここに示されるのは壁です。突破口のない行き詰まりとしか受け取れない現実です。私たちが出会う行き詰まりという壁、これをどうしたらよいのか。それを見出すヒントは福音書記者のヨハネが二人の弟子の名前を明記し、登場させていることにあります。フィリポとアンデレです。それはこの二人の振る舞いを通して明らかにしたいことがあったからだと思います。

◆ 彼ら二人が直面したのは壁です。五千人分の食糧が必要だという現実、それに対して確認できるのは少年が持っている「大麦のパン五つと魚二匹」というもうひとつの現実、この二つ現実の間にあるのは明らかに壁です。どうしてよいかその先を全く見通せない壁です。フィリポもアンデレもどうしてよいか全く分からないのです。

◆ そのような壁を前にして、二人はどうしたのか。まずフィリポは「5千人の人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねるイエスに「そうするには少なくとも二百デナリオンが必要です」と応じました。そのようなお金を用意することは不可能ですという思いがにじんでいます。

◆ 一方アンデレはひとりの少年を見つけてイエスのもとに伴ってきました。その少年が大麦のパン5つと魚2匹を持っていました。しかし大群衆のお腹を満たすための食べ物として、この少年の持ち物は何の意味も持ち得えないと彼も見ています。9節の言葉がアンデレの思いを写しとっています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんな大勢の人では、何の役にもたたないでしょう。」

◆ そこにイエスが登場します。そしてパンと魚を配って、人々の空腹を満たすという見せ場が始まるのですが、ここで気付かされることがあります。この物語を私たちは「パンを増やす奇跡」だと思って読んではいないでしょうか。けれどもパンが増えたとは実はどこにも書かれていないのです。パンが増えたのだろうと考えるのは、五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人が満腹するはずがない。パンも魚も増やされたから満腹できたのだと推理するからです。しかし、それは私たちの常識からの推量に過ぎません。ヨハネはパンが増えたとは書いていません。ヨハネだけではなくマタイも、マルコも、ルカも、パンが増えたとは一言も書いていません。

◆ なぜ福音書記者たちはこのことを書き留めなかったのでしょうか。理由はシンプルだと思います。この物語の主眼がパンの増加に置かれてはいないからです。イエスがこのことを行なったとき、実際にはパンは増えたのかも知れません。しかし福音書記者はそのことを語るべき意味を認めなかったので、書き留めなかったのです。パンの増加よりももっと大切なことをこの物語で描きたかったに違いありません。それは何か。フィリポとアンデレがその鍵を握っています。彼ら二人にとって大群衆がお腹を空かせているという現実は壁でした。五つのパンと二匹の魚ではどうしようもない、ないのと同じだという壁です。その点で二人は同じなのです。

◆ ただ二人の対応で一つだけ違うことがあります。それは、意味がない、どうしようもないと思えること、ここで言えばわずかなパンと魚を持った少年がいる、ということをイエスの前に提示したか、しなかったかです。イエスのもとに持ってきたか、持ってこなかったかです。言い換えるならば、行き詰まった状況をつながりの中に置くのか、置かないのかです。そのままあきらめて放置するのか、それとも誰かに伝えて見てもらおうとするのかです。

◆ 見通しがたったからイエスのもとに少年を連れてきたのではありません。少年が持っていたのはパン五つと魚二匹です。それは絶望的な状況を強調しています。けれでも、その状況をイエスのもとに持ってきた、つながりの中に置いた、そのことによって皆が満腹するという、驚くべきことが起こったのだと語っているのです。何も役には立たないとしか思えない、それでもそれをイエスの前に持ってきたか、来なかったか、それがアンデレとフィリポの違いです。二人とも五千人もの人たちの空腹をどうしたら満たせるのか皆目わからない、壁しか見えなかったのは同じです。ただアンデレはその壁をイエスに見せたのです。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」とイエスに伝えています。

◆ ヨハネが描きたかったのはそこです。つながりの中に置かなければ、どんなこともそのままです。しかしつながりの中に置くときに、壁の先に続く道が見えてくるということを聖書は示すのです。そこに神がちゃんと働いておられるのだと語るのです。しかし人は、それを諦めるのです。「何の意味もないでしょう」と言って諦めてしまうのです。「どうしようもない」と自分で判断し、決めつけ、投げ出し、イエスの前に持っていこうとしない、つながりの中に置こうとしないのです。

◆ 壁の向こうが見えないのは、壁の向こう側に何もないからではありません。壁は終わりではなく、その向こうに道は続いていると聖書は告げています。大事なことはその壁の向こうを見る手だてです。わたしたちは諦めすぎてはいないか。自分の側からしか現実を見ようとしていないのではないか。聖書を読むのは、そこに自分に出来ることだけを読み取って、満足するためではありません。それを超えて備えられる道を発見し、その道を歩むためにこそ聖書に向き合うべきなのです。「なにかわたしにでもできることはないか」という思いを抱いて、自分の現実をイエスの前に運び、神に委ねるという生き方を忘れないでいたいと思うのです。

2020年3月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2020年3月8日(日)午前10時30分
復活前第5主日
説 教:「事情調べ」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書9章13〜41節
招 詞:エフェソの信徒への手紙5章6〜8節
交読詩編:18;26-35
讃美歌:26,59,419,446,91(1番)

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