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2017年2月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.2.26 マタイによる福音書14:22-36 「神が変わる理由」   望月修治       

◆ 弟子たちは舟でガリラヤ湖を渡っていました。おりしも突風が吹いて大しけとなり、舟が沈みそうになりました。弟子たちが漕ぎ悩んでいると、イエスが湖の上を歩いて近づいたというのです。それを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖に震え上がりました。そのときにイエスは弟子たちに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言い放ちます。「ちょっと待って下さい」と言いたくなりませんか。陸からかなり離れた湖上で、嵐によって舟が沈みようになったら、おびえてうろたえるのは当然です。信仰があろうがなかろうが、怖いものは怖いのです。死の恐怖でおびえている者を「信仰の薄い者!」と言って叱りつけてどうなるのですか、と言いたくならないでしょうか。

◆ 今日の箇所を読んでみますと、そもそもこの夜弟子たちが味わった恐怖の体験はイエスによってもたらされたと言えるのです。その根拠は22節です。次のようにしるされています。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」た、とあります。イエスに強く促されたから、舟で、しかも夜の闇が広がり始めたガリラヤ湖に漕ぎ出したのです。

◆ この物語で読む者の思いを引きつけるのは、湖の水面を歩いて弟子たちに近づいたというイエスの姿だと思います。一晩必死で舟を操り、ようやく夜が明けたとき、弟子たちは湖の上を歩いて近づいてくるイエスを目撃します。イエスだけではなく、ペトロも水の上を歩きます。ペトロの場合は途中で疑って沈んでしまうのですが、それでもこの記事は、イエス以外にもこのような奇跡的行為が出来たということで注目を引きます。人は奇跡に惹かれます。奇跡を行うから特別な存在、神に近い人、あるいは神の子だと受けとめ、その奇跡行為の不思議さが人を信仰に導くと思っている面があります。奇跡に出会って心が燃えて信仰に生きようと決意する。そして折にふれてそういう体験をすることを願い、それによって心を燃やされ信仰生活が継続できる、という理解の仕方があります。

]◆ しかし、はたしてそうなのでしょうか。この物語は湖の水面を歩くという奇跡的な行為にポイントがあるのではなく、「距離」すなわちイエスが弟子たちを強制的に群衆から引き離し、さらに舟でガリラヤ湖の向こう岸に向かわせることで作り出された距離に重要な意味があるのだと思います。福音書記者のマタイは、イエスが弟子たちに背を向けて山に登ったと書き記し、弟子たちとイエスとの間に距離ができたことを印象づけます。この距離はイエスが弟子たちに「強いて」意図的に作り出された距離です。ですからイエスが弟子たちとの間に作り出した距離には意味があるはずです。

◆ 今、人は他者との間の距離の取り方が分からなくなってしまっていることが多いと私は感じています。長くつきあい、一緒に仕事をしたり、同じサークルや職場に身を置いてきた人であるのに、自分の考え方に反する意見を言われたり、否定されたりした時に、「あなたをそんな人だとは思わなかった」と怒り出し、その相手を全面否定して、もうつきあわないとそっぽを向いてしまうというケースが少なくありません。それは距離が出来ることの意味が分からないからです。

◆ イエスと弟子たちとのつながりにおいて、距離が開くことで明確になることは何でしょうか。言い方を変えれば、イエスが弟子たちと一緒にいて距離が開いていない状態では分からないもの、あるいは見えにくいものは何でしょうか。そのことに関して今日の物語に示されているのは、イエスと弟子たちとのつながりにおいて近づいてくるのはイエスだということです。弟子たちの側がイエスに近づくのではなくイエスが弟子たちに近づき共にいるという関係のあり方です。しかもその近づき方は湖の水の上を歩いてでも、ということです。水の上を歩くということは、人間には不可能なこと、つまりほとんど解決が困難な状況というものを象徴的に示しています。イエスはそのような状況であっても近づいてこられる。その働きを届けて下さるということです。さらに言えば神はそのような仕方で私たちに近づき働くということです。しかしながら人はこの神の働き、イエスの働きを受けとめきれないで不安や恐れにしばしば駆られるのです。ペトロの姿はそのことを物語っています。舟に近づいてくるのが幽霊ではなくイエスだと分かった時、ペトロは「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言って、水の上を歩き出しました。しかし途中で怖くなり沈みかけたとあります。そのペトロに対してイエスが言ったのが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉でした。

◆ 「信仰」はピスティスというギリシャ語を訳した言葉です。ピスティスを「信仰」と訳すのは聖書独特の訳し方なのです。もともとの意味は「信頼」です。今日の箇所の場合、ピスティスを「信仰」と訳すよりも、この言葉の本来の意味に立ち返って「信頼」と訳した方がよいと思っています。「信頼」という訳が固いのなら「安心して心からおまかせする」と訳してはどうでしょうか。「信仰の薄い者よ」とは「信頼が足りないよ」ということ、「もっと安心してまかせてくれたらいいのに」ということです。

◆ 逆風と波に悩まされ、追いつめられて途方に暮れている状態にある者の所に水の上を歩いてまで、つまりこれは無理だと判断されるような状況であっても、断念することなく近づいてきて一緒の舟に乗る、そういうふうに神は働いてくださることへの信頼が足りませんね、もっと安心してまかせたらよいのに、とイエスは言ったのです。でも人はそのような状態に立ち至った時、神の働きを受けとることなどどこかへ飛んでしまいます。どうしていいのか途方に暮れる時、神の働きなどどこかに置き忘れてしまいます。

◆ しかしそのようなときにこそ、私たちの方に近づいてくる働きが必要です。私たちがたぐり寄せようともがくのではなく、湖の上を歩いてでも近づいてきて「恐れることはない」と呼びかけ働く方の働きが必要なのです。人間の力だけで関係を押し広げようとしたり、こじ開けようとするのではなくて、いかなる状況の中でも近づいてきて呼びかける働き、力があることを見失わないことが大事なのです。

◆ 関係は一方が変われば動き始めます。神は自らが変わり動くことでそのことを示されたのだと聖書は語ります。神と人間との関係で変わったのは神さまです。十字架にかかったのは私たちではなくイエスです。罪に生きる側の私たちではなく神の側で十字架を負ったのです。そしてそのことで関係が動き出しました。神の国はあなたがたの間にある、神は私たちの間で働くと聖書は語っています。しかしそれはわたしとあなたは何も変わらないで、ただその間で神が忙しく働いてくださって関係を整えてくださるという意味ではありません。私が変わることを神は促し、そしてその変化を用いて関係を動かすのです。そうでないのなら今日の箇所でわざわざ強いて距離を作り出す必要などないはずです。岸辺にいてイエスは調整すればよいということになります。

◆ 人は様々な他者との関係の中で生きています。そしてそこには、もう今さらこの関係を動かすことは出来ない、現実はそんな綺麗事ではない、とつぶやく声が満ちています。しかし変わりたい、変えたいと人はどこかで願っています。そのときどちらかが変わらなかったら関係は動き出しません。神は私たちが変わることを求めます。ただそのために神の側がまず私たちに近づいてきてくださっているのです。その関わり方を私たちは自分と自分の関わっている人たちの間に写しとり、歩むのです。まず変わりたいと願った自分が踏み出すなら必ず関係は動き出し、新しい風が私たちの人生の中に流れ始めるはずなのです。そのことを確かめるために、まず自分から動きだしてみてはどうでしょうか。

2017年3月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年3月12日(日)午前10時30分
復活前第5主日/受難節第2主日
説 教:「ある追放疑惑」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
12章22-32節
招 詞:イザヤ書35章1-2節
交読詩編:130
讃美歌24、16、165、377、91(1番)
◎礼拝場所:静和館4階ホール

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