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2018年8月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.8.26 サムエル記上8:1-22 「あなたにとっての雑草でありたい」 平松 讓二   

◆ イエス・キリストが誕生する約1000年前、士師サムエルが活躍していた時の話です。士師とは、「裁き人」のことで、イスラエルの民に様々な問題が起こった時に、特に裁判において決定権を持っていた、指導者的な存在でした。この士師たちが活躍をしたのは、いわゆる旧約聖書の士師記の時代です。あのモーセからイスラエルの民を任されカナンへと導いたヨシュアやデボラ、ギデオンなどが有名な士師です。この士師は預言者たちによって継承されていくのですが、サムエルは人々に心から信頼されていた士師でした。しかし、このサムエルの時代が終わると、イスラエルは王を立て、王国の時代に移っていくのです。

◆ 「隣の芝は青く見える」という言葉があります。皆さんもこの言葉を使うことがあるでしょう。サムエルの時代の終わりのころ、イスラエルの人々にとって、周りの国々はものすごく「隣の芝は青く見える」存在でした。それは、自分たちの国には王がいないのに、周りの国には王がいて、王のもと人々がまとまっていたからです。しかし、イスラエルだけはギデオンの時にもそうだったように、「自分たちの王は神である。自分たちには人間の王は必要ない」という考えを貫いてきたのでした。イスラエルの人々も理性的には、「私たちの王は神である」ということを理解していました。しかし、イスラエルには王がいないから政治的にまとまらないのだ、また軍事的にも弱いのだという考えがはびこってきたのです。そして、それが民衆の大多数の意見となっていきました。長老たちが、イスラエルに王を立てるように、サムエルのところに訴えに来て要求するのでした。

◆ もちろん、サムエルの答えは決まっていました。私たちの王は神であって、イスラエルに王は必要ないのです。基本的に反対の立場を長老たちに伝えるのですが、長老たちは全然納得しませんでした。サムエルは11節から18節にかけて、人間が立てた王がいかに人々の上に権力をふるい、結果として人々を苦しめていくかということをとうとうと語っています。ある意味、目の前にいる長老たちを説得しようとして必死に語っています。しかし、長老をはじめとする人々には、もう既にサムエルの言葉に耳を貸すものがいませんでした。

◆ 迷ったサムエルは、神に祈り、神の声に従うことにしたのですが、神がサムエルに語った言葉は22節の「民の声に従いなさい」という言葉だったのです。サムエルはこの神の言葉を聞いて、どのような気持ちになったことでしょうか。王を立てることが、この先イスラエルにとってどのようなことかを分かっているのに、それでも神は「民の声に従いなさい」と言うのでした。そして、サムエルもイスラエルに、王制を望む民の上に、王を立てる決心をしたのでした。

◆ この後、人々が望んだイスラエル王国が誕生してゆきます。イスラエルにおける王制は国力を強め、イスラエル王国はペリシテ人や他民族との戦いに勝利してゆきました。最初の王はサウル、そしてイスラエル最大の王ダビデ、栄華を極めたソロモンと続いてゆきます。国の力は大きくなっていきました。しかし、サムエルの心配したとおり、人々は次第に神から離れ、神の存在を忘れた生活に入ってゆきます。また、イスラエル王国の時代が進むにつれ、王という権力をめぐって、それまでほとんど起こらなかった家族の中での争いがおきたり、部族間で分裂したりしていきます。そして、最終的にこのイスラエル王国は滅んでいきました。

◆ 人の上に王を立てたことで、国の仕組みだけでなく、神と人間との関係が変わっていきました。少なくとも王国ができるまでは、神の下に人々が横一線にいる、そんな神と人間の関係が守られていました。しかし、王の存在によって人々は、次第に神の存在を忘れ、人間同士の関係もそれまでの横の関係から縦の関係へ、今までなかった身分の違いをつくっていきました。つまり、ピラミッド型の関係、ヒエラルキーが出来上がってゆき、ピラミッドの上に上にとのぼりつめようとする人が増えていきました。さらに、一層の争いが起こるのです。

◆ このようなことが起こるのはサムエルもわかっていたし、神はもちろんご存知のはずでした。しかし、あの時に神は「民の声に従いなさい」とサムエルに伝えたのは何故だったのでしょうか。これが聖書です。人々の過ちや間違いを、後に生きる私たちに伝えているのです。そして、今を生きる私たちに、当たり前と思うことから、視点を変えることを伝えているのです。神は人々を見捨てたのではありません。あの時あえて、イスラエルに王を立てることによって、結果として人々は、のちに起こる王国滅亡という絶望の淵から再び神を見つめ直すことができたのです。人々は再び神に立ち返って、生きることができました。この「民の声に従いなさい」という神の言葉は、旧約聖書最大の赦しの言葉であります。神は人々の過ちを知っておられながら、赦して下さる方です。

◆ 今の時代、私たちの周りにどれだけ神の存在を恐れない出来事や、悲しい出来事、いのちを軽んじる出来事が増えていることでしょう。でも、それが、今私たちが生きている社会の現実なのです。あえてそんな社会の中に生きながら、神の下にある横型の人間関係を目指して生きることができないでしょうか。サムエルの終わりの時代からイスラエル王国の時代にかけて大きな過ちを犯していったイスラエルの人々の失敗から、神がわたしたちに語っていることではないでしょうか。

◆ ダリアという花は育てるのが非常に難しい花です。ある人から聞いた話ですが、この花を育てるために、最高の土を用意して、必要な分だけ肥料を与えて育てても、ダリアはきれいな花を咲かせません。不思議なことに、ダリアは雑草と共に育てると綺麗な花を咲かせるのです。ダリアという花は、成長する中で、雑草の根としっかりと自分の根を絡ませて、はじめて強い根になり成長をするそうです。そして、自分の根をしっかりとしたものとして、美しい花を咲かせるのだそうです。

◆ 私たちはダリアの周りの雑草のような存在になれないでしょうか。見えない土の中で、心の中で人々と根を絡ませ、心と心をつなぎ合わせることができないでしょうか。横一線につながった雑草のように、私たちがつながった時に、神の福音が花を咲かせることができるのではないでしょうか。かつて、王国を建てたいと願ったイスラエルの民衆は見えないところで繋がっている人と人との関係よりも、見える形での王を立てることで大きな過ちを犯していきます。この社会では見える形での人間関係に安心感を覚えてしまいますが、私たちはダリアの周りの雑草たちが見えないところで根を絡ませているように、お互いに心と心でつなぎあって生きていかなければなりません。

◆ サムエルの時代から約1000年後、神はイエス・キリストをお与えになりました。しかし、人類は再び大きな過ちを犯し、キリストを十字架にかけます。ですが、今もなお私たちは神に赦しを与えられています。それは、キリストの福音であり、聖書の言葉です。ダリアを神の福音、またイエス・キリストにたとえると、イエス・キリストという苗の周りで、しっかりとお互いに根のところで支えあって、はじめて神の福音と言葉を聞き、それをこの教会の中で花咲かすことができるのではないでしょうか。私たちはダリアに雑草の根が必要なように、キリストの福音にとっての雑草でありたいと願います。

2018年9月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年9月9日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第17主日
説 教:「心の決めたままに」
牧師 望月修治
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅱ
9章6〜15節
招 詞:申命記15章4〜5節
交読詩編:112
讃美歌:29,202,404,512,91(1番)

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