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2019年3月31日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.3.31 ルカによる福音書9:28-26 「光と雲と声と」 望月修治    

◆ 牧師館の近くに日蓮宗の法輪寺というお寺があります。その門の脇に掲示板があり、人生訓がいろいろな仏教の二字熟語で筆書きされ掲示されています。その言葉には短い解題も記されています。例えば「相見(しょうけん)」傍らにやや小さな字で「良き出会いが人生を作ります」とあります。相見からそういうふうに自分たちの生活のあり方を考えるのかと納得させられます。このように宗教が倫理、人として守り行うべき道を示す教えとして受容されることは昔からの通例です。理解しやすいということを考えたら、聖書が倫理的な言葉だけであったら楽だったかも知れないとも思います。十字架に極まったイエスの生き方が、すべての人の模範となり、そのように生きるべく努力する道が説かれているだけであったら、どれほど納得しやすく、説明もしやすいことだろうかとも思います。

◆ しかし、人生訓や倫理では、私は救われないのです。それが高度なものであればあるほど、逆に追い詰められ、責め立てられ、息ができなくなってしまいます。人間の側から、精一杯手を伸ばして悟りを得るというのではなく外側の世界から何かが示される、ということによって新たな気づきをその人の人生の中に起こし、「さあ歩み出せますよ」と促す、それが宗教の本来の役割だと思っています。人間の外側から来るものは人の思いを超えているに違いありません。当然、違和感が生まれるはずです。十字架に架けられ、なすすべもなく息絶えた人を「神の子だ」とか「救い主だ」と言われても、私たちは違和感を感じるに違いありません。しかし神は違和感を人が覚えざるを得ない出来事を起こし、私たちに御心を示すのです。では私たちはどうしたらいいのか。その具体的な手立てを今日の物語は語るのです。それは「聞く」ということです。35節に「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」とあります。人の思いや理解を超えるものと向き合う場合に、必要なのは「聞く」こと、「受ける」という姿勢なのだと今日の物語は語っているのです。

◆ イエスは、自らの死と復活について弟子たちに語ってから8日ほどたった時に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登りました。山は、高ければ高いほど人間が目指す最高の場所とみなされます。山を倫理の世界での最終点を示していると見る、すなわち人間の修行の最終到達点と見なすという見方が一方であります。他方それとは全く逆に、そこは人間の最も低くされる場所、すなわち神からの啓示、神から御心を聞き受ける場所であるという見方もあります。この二つの見方のせめぎ合いが今日の箇所で語られているのです。登った山の上で、イエスの顔の様子が変わり、服も真っ白に輝くという不可思議な出来事が起こりました。ただ姿が変わっただけではなく、そこにモーセとエリヤが姿を現し、イエスはこの二人と語り合っていたというのです。弟子の一人ペトロがこの出来事を見て、イエスとモーセとエリヤのために仮の小屋を三つ建てましょうと言ったというのです。このわけの分からないペトロの発言は、弟子たちの戸惑い、揺れ動く思いの大きさを表しています。

◆ 山の上で弟子たちが「わけの分からなさ」に戸惑っている姿は、何を語ろうとしているのでしょうか。9章18〜20節で、イエスは弟子たちに、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた後で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけたと記されています。ペトロは「神からのメシアです」と答えました。この言葉は、原文では「クリストン・トゥ・テウー(直訳すれば<神のキリスト>)」となっています。クリストはギリシャ語で救い主という意味ですから、この箇所は原文に即して「神のキリスト」と訳したらいいはずなのに、あえて「神のメシア」とヘブライ語の救い主を意味する言葉を用いて訳しています。それはペトロが「神のキリスト」ですと答えている場合の「キリスト」と、十字架にかけられ息絶えて、墓に葬られ、そして3日目に復活したイエスをキリストだと告白する場合のキリストとは、意味が違うということを表すために、ペトロの答えを「神からのメシア」と訳しているのだと思います。メシアという言葉には、ユダヤの人々の昔からの理解がしみ込んでいます。ユダヤの人々が期待し、思い描いていたのは、王であり、預言者であり、祭司でもある、それらはユダヤ社会を支配する力を表しますが、その三つの力を併せ持って、いかなる政治的権力にも立ち向かうことができて、自分たちを解放してくれる救い主がやってくることでした。その救い主を表すのが「メシア」という言葉です。ペトロが、あなたこそ「神のメシアです」と言ったのは、そのような意味なのです。

◆ 山の上での弟子たちの戸惑いは、二通りの「救い主」が示されることによる混乱であり、戸惑いであると言うことができます。二通りの「救い主」それは今日の箇所で言えば、ひとつは「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝」き、モーセとエリヤと語り合うイエスです。力を持ち、自分たちを時の政治権力の支配から解放してくれるのが「救い主」だ、という人々の思いにぴったり当てはまる救い主です。しかしその光り輝く情景の中に、もうひとつ全く正反対の「救い主」のことが描き込まれています。輝きに包まれた中で語り合うイエスとモーセとエリヤ、この三人が語り合っていたのは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」だったと記されています。これは22節で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され」るとイエスが語ったことについて、三人が語り合っていたということです。ひょっとしたら最悪の場合、殺されるかも知れないという話ではありません。「必ず多くの苦しみを受け、排斥され殺される」と話し合っていたのだと聖書は記すのです。そして雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえたというのです。その声の主は神です。ですからイエスが「必ず殺される」ということは神の意志であること、神の御心が明らかにされる出来事なのだということを示すのです。

◆ 人は自分の家族の死、大切な人の死を自分の死とすることはできません。イエスの死を自分の死とすることは出来ません。ただ、語ることはできます。そして聞くことはできます。そうすることで大切な人、愛する人、家族の人の死とどのように向き合い、引き受けて行ったらいいのかを見いだしていくのではないか。失ったものが戻ってくることはありません。悲しみが消えることもありません。しかし、亡くなった人とどう生きたのかを思い起こしながら語り、聞くことは私たちにできることであり、その人の死に連なることでもあるのだと思うのです。今日の物語の舞台である山、イエスの姿が変わった山、そこは人間が少しでも高い到達点を目指して登るところではなく、神が降る場所として示されているのです。だから「聞け」なのです。神の御心と働きは人間の思いをはるかに超えるのです。そのことを体験すると、人は混乱し、なんとか自分の理解できる枠内に取り込もうとします。

◆ けれど神はそういう形での安心の仕方を差し出そうとはなさらない。もしそれでいいのなら、人が恐ろしさで震え上がり、正気を失ってしまうような出来事を起こさなくて済むはずです。でも神は起こすのです。その時神は遠慮をしません。こんなことをしたら人は躓くかもしれない、そのような忖度をなさらないのです。人を生かすために神は自らの力をひたすら使われます。その力は人の理解できる範囲を超えているのです。分からないことは相手に聞くのです。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」 神は聞き入ることへの招きを戸惑う私たちにいつも差し出して下さっています。

2019年4月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年4月14日(日)午前10時30分
復活前第1主日 新入生歓迎礼拝
説 教:「今はあなたたちの時だ」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書22章39〜53節
招 詞:イザヤ書56章1〜2節
交読詩編:22;1-6
讃美歌:25,156,288,303,91(1番)

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