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2014年10月26日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2014.10.26  ヨブ記38:1-18 「腰に帯を締め答えよ」  

◆「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」という書き出しで、42章にわたる「ヨブ記」の長い物語は始まります。この物語は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と評価されるヨブの人生に、不当な苦難が訪れたという深刻なテーマを主題としています。ヨブはイスラエル人ではないという設定になっています。彼は当初、家族と共に敬虔で平穏で豊かな生活を営んでいました。それは1章の1−3節に記されています。ヨブは「七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。」

◆ またヨブの「神を畏れ、悪を避けて生きていた」と評価されたことの中身を次のように記しています。ヨブの「息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。『息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。」 「心の中で」とは、行為に表さなくても、考えの中に不注意にも神を呪ったかもしれない、そのようなことにも気を配って、いけにえを神に献げて許しを祈るほどであったということを言っています。

◆ ところが突然、そのヨブのもとに、多くの家畜が略奪され、牧童たちが切り殺されましたという報告が届きます。続いて雇用していた使用人たちが落雷の被害を受けて死んでしまいます。さらには七人の息子と三人の娘が竜巻の災害に巻き込まれて命を落としてしまいしました。しかしそれは悲劇の終わりではありませんでした。しばらくすると、ヨブ自身が全身、重い皮膚病と腫れ物にかかり、妻からさえも「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言われるほど悲惨な状態になってしまうのです。それにもかかわらずヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」(1:21)、あるいは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)と言って、決して神を非難しなかったというのです。

◆ しかしながら、あまりの苦痛に耐えかねて、ヨブは「わたしの生まれた日は消えうせよ。・・・・なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか」(3:1、3:11)と自分の出生を呪い、苦悩の叫びをあげました。苦難にあう理由が分からないことの苦しみが、さらに苦しみを増していきます。古代世界では、苦難は人の犯した罪に対して神が下す罰だと考えられていた。しかしヨブはどう考えても、自分が苦難を受ける理由が自分にあるとは思えませんでした。人間にはすべてを見通すことはできません。理由が分からない。分からないから納得できない。だから苦しむのです。

◆ ヨブ記という物語は、人がなぜ苦しむのか、その問いにどのような示唆を与えようというのでしょか。どうしたらその「なぜ」への答え、あるいはせめてその答えを知るための道はどこにあるのか、その問いに答えてほしいと思うのです。そのことを示唆する言葉が19章に出てきます。ヨブはそこで、3人の友人のひとりビルダドとの論争の中で次のように語っています。19:25-26「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。」「わたしを贖う方は生きておられる」とヨブは語ります。「贖う」という言葉は元来、代価を払って「買い取る」「買い戻す」という意味です。金銭的に行き詰まって自分の身を売らねばならなくなって「奴隷」になりかねない親族がいたら、その近親者は彼を助けるために、代わりに「贖い金」を支払って、彼を解放する責任がある、そういう場合に使われるのが「贖う」です。神は、自分をこのような理不尽な状況、苦難の中に置いたまま放っておかれる方ではなく、そこから「贖って下さる方」「解放してくださる方」なのだとヨブはおそらく自分に必死に言い聞かせるように語るのです。

◆ そしてヨブは「わたしは神を仰ぎ見るであろう」(19:26)と語ります。「神を仰ぎ見る」とは「神に出会う」ことです。そしてそれはヨブの側が探し出すということではありません。そのようなアプローチにヨブは疲れ果てています。そうではなくてまず神がヨブに応答し、ヨブをこの世の苦難や、死で終わってしまうことから贖い出してくださる。そのような形での解放をヨブは熱望し、求めたのです。けれど神は沈黙したままでした。求めているのに応答がない、人はいつまでもその状況にとどまり希望を持ち続けることはできません。「わたしは神を仰ぎ見るであろう」という思いは潰えてしまいました。その火は消え入りそうになったけれどほそぼそと灯っていたというのではないのです。ヨブが消すまいと思っていた火は、神の沈黙が続く中で消えてしまったのです。ヨブは苦難の極みに身を置いたけれどそれでも希望を失いませんでした、神への信頼を失いませんでしたという物語ではありません。「わたしは神を仰ぎ見る」ということをヨブは諦めてしまったのです。

◆ ところが神は、ヨブが諦めてしまったことを思いがけない仕方で叶えます。そのことを記したのが今日読んでいます38章です。1節に、神は嵐(砂嵐)の中からヨブに応答したと記されています。「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」と神はヨブに迫ります。「腰に帯をせよ」とは「土俵に上がって来い」ということです。神はヨブと同じ土俵に立つというのです。そこで神が語ったのは、すべてのものを創造したのは「わたし」(神)であること、そして自然がいかに不思議さに満ちているかということでした。この神の語りかけは41章の終わりまで続きます。ヨブが自分はなぜこのような苦しみに遭うのかと問い続けて来たことに神は直接答えません。しかしヨブは42章で「今、この目であなたを仰ぎ見ます」と答えているのです。このときヨブは神を見ることができたのでしょうか。そうではないはずです。神はすさまじい砂嵐の中からヨブに答えているのですから、ヨブは目を開けて神を見ることできなかったはずです。でもヨブは「今、この目であなたを仰ぎ見る」と断言するのです。それは神がヨブを見たからではないでしょうか。神に知られている、そのことを納得したからではないでしょうか。19章で「わたしは神を仰ぎ見るであろう」と語っていたヨブが、そしてそれを完全に諦めたヨブが、「今、この目であなたを仰ぎ見ます」と言い切るのは、彼が味わって来た苦しみの理由を見通せたから、納得できたからではありません。その苦しみは知られていた、神が知っていて下さった、そのことをヨブは知ったからだと思うのです。神の思いを知りつくすことなど出来ない。なぜ苦しむのかその理由を納得し尽くすこともできない。しかしその苦しみは神に知られている、神が見て下さっている、その気づきがヨブにもたらされた。だから彼は「今、この目であなたを仰ぎ見ます」と語ったのだと思うのです。

◆ 社会福祉法人北海道家庭学校の校長をしておられた谷昌恒さんが「少年の悲しみを抱きしめて」という本を書いておられますが、その中で、人のこころは見えない、暗いものだということを大切にしたいと書いておられます。他人の心を百パーセント理解することは出来ない。それを百パーセント分かろうとすると、そこに問題が生じる。全部が見えて来なければ承知しない、自分の気に入らなければ承服しないと思わないように、そのことを学ぶために、生徒たちと一緒に見えざる神を礼拝するのだと言っておられます。

2014年11月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年11月9 日(日)午前10時30分
降誕前第7主日
説 教:「ひそかな笑い」
牧師 望月修治
聖 書:創世記
18章1-15節(旧約p.23)
招 詞:ローマの信徒への手紙9章6-7節
讃美歌:28、17、157、357、524、91(1番)
交読詩編:105;1-11(p.115上段)

※次週の礼拝は聖餐式を行います。
※礼拝場所は静和館4階ホールです。
(同志社大学ホームカミングデイの行事で栄光館が使用されるためです。)
※こどもの教会は、御所で礼拝をおこないます。9時半に栄光館前に集合してください。

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