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2017年12月31日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.1.31 マタイによる福音書2:1-12 「二人の王の物語」  望月修治 

◆ 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」福音書記者のマタイは実に簡潔に、これ以上削ぎ落とすことはできないほど絞り込まれた言葉でイエスの誕生を書き記しています。この簡潔さは、結果として、次に続いて語られている物語を読む者に印象深いものにしていきます。2章の冒頭で、イエスの誕生を告げると、マタイはその情景を思いめぐらすいとまも与えまいとするかのように、遠い異邦の地からの来訪者を登場させます。そして突然姿を現したその来訪者、東方の国の占星術の学者たちとユダヤの王ヘロデとの間に交わされたやりとり、それを巡って起きた出来事、そして幼い救い主を訪ね礼拝する学者たちの様子を物語るのです。その物語を通して、マタイは救い主誕生の出来事に何を見出したのかを書き記すのです。

◆ 「占星術の学者たち」とは、原文では「マゴス」です。これは、もともとはペルシアの祭司のことでした。人々から畏れ敬われる存在であり、社会的な地位もあり裕福でもある、そのような人たちであったと考えられています。その学者たちが、はるばるユダヤにやって来ます。その次第を福音書記者のマタイは次のように記します。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」  この「ユダヤ人の王」とは、ただ「ユダヤを治める支配者」というだけの意味ではありません。ユダヤの民が長く待ち望んできた、神から遣わされる救い主をも意味する言葉です。ユダヤの人々が語り伝えてきた救い主とは紀元前10世紀にイエスラエル民族を率いて大帝国を作り、諸国諸民族に君臨したダビデ王のような英雄のことでした。学者たちは、そのようなユダヤ人の王、ユダヤから出て諸国諸民族に君臨することになる方を拝むためにはるばる旅をしてユダヤにやって来たというのです。

◆ 彼らはまず、ユダヤの都エルサレムに向かい、ヘロデ王の宮殿を訪れます。福音書記者のマタイが、ユダヤに着いた学者たちがまずエルサレムを訪れたというふうに描いたのには理由があります。ルカによる福音書は救い主イエスの誕生を最初に知らされたのは野宿をしていた羊飼いたちであったと語っています。羊飼いという職業は当時、評価の低い仕事であったことを考えますと、ルカは救い主の誕生を密やかな出来事、ほとんどの人が救い主が生まれたことなど知らなかったこととして描いています。しかしマタイはむしろ逆なのです。東方の学者たちがはるばる旅をしてやって来た、それは「ユダヤ人の王」を拝むためなのだということがエルサレム中に知られ、ヘロデ王にも知られ、センセーションを巻き起こすのです。決して密やかな出来事ではないのです。マタイにとって、学者たちが誰にも知られず、ひそかにベツレヘムを訪れて礼拝を捧げることなどありえないのです。なぜならユダヤ人たち自身が新しい王の誕生、救い主の誕生をよく知っているということをクリスマスの出来事を物語る前提としているからです。そしてその上でその救い主をどう受けとめるのかを決断しなければならないのだというのがマタイの思いなのです。

◆ このことをマタイは東方からやって来た占星術の学者たちと、ユダヤの指導者たちとを対比させながら、物語りました。キリストに関する知識から言えば、東方の学者たちは星の指し示すこと程度しか知りません。彼らが知っていたのは2節の言葉から判断すれば、星が特別な輝きを見せるとき新しい王がユダヤに生まれたしるしであるという程度のことであったと思われます。これに対してエルサレムにいた祭司長や律法学者たちは、それとは比べものにならないほど多くの知識と情報をもっています。そのことはヘロデから「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問われて、即座に預言者の言葉を引用してそれがベツレヘムであることを即答していることからも分かります。ちなみに6節に記されている預言者の言葉はミカ書5:1(p.1454)「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」を引用したものです。祭司長や律法学者たちは預言を正確に知っており、その預言の言葉が意味していることもきちんと分かっているのです。

◆ マタイが強調しているのは「にもかかわらず」ということです。にもかかわらず彼らユダヤ人の指導者たちは救い主を拝まなかった、キリストを礼拝するという信仰的な決断と行為をとらなかったということです。彼らはエルサレムからわずか8キロしか離れていないベツレヘムに行こうとはしなかったのです。東方から占星術の学者たちが1千キロもの旅をしてやってきて、「ユダヤ人の王としておうまれになった方はどこにおられますか」と尋ねられた。そのことでユダヤ人の指導者たちも新しい王が誕生したことを知ったのに、そしてその王はどういう形でどこに生まれるのかも正確に知っていたのに、そしてエルサレムからわずか8キロ程度しか離れていないベツレヘムで起こっているはずの出来事であったのに、彼らは出かけていこうとはしなかったのです。

◆ 占星術の学者たちは彼らの国で常の天には見ることのなかった星を見ました。その星の輝きを彼らは自分たちが持っている知識で解釈し、その意味する所を確かめたいと旅に出ました。彼らが思い描いた場所はエルサレムでした。「ユダヤ人の王」に会うのですから、それは都エルサレムのはずでした。その王はユダヤから出て諸国諸民族に君臨することになる方のはずでした。その方を拝むためにはるばる旅をしてユダヤにやって来たのです。ただし占星術の学者たちが幼子に出会ったのはエルサレムではなくベツレヘムの村であり、彼らがひれ伏した「ユダヤ人の王」は諸国諸民族に君臨することになる王ではなく、十字架に架けられて息絶える「ユダヤ人の王」、メシアでした。予期せぬ場所で予期せぬ真実に彼らは出会うのです。

◆ 今居る場所は望んでいた場所でしょうか。望んでいた場所とは違うと、それを理由に楽しめなくなってしまったり、投げやりになってしまうことがあるのではないか。しかし望んでいた場所とは違うことで気づくことがある。違わなければ気づけなかったことがある。その気づきは生き方を変える力を受け止める扉を開けてくれるのです。学者たちはベツレヘムという思い描いていた場所とは違うところで、しかも自分たちが期待していた救い主とは違った「救い主」の真実を知った人たちです。

◆ 今いる場所方ほかの場所に移るのではなく、今与えられている状況をなくすことではなくて、今いる場所で生きることの受け止め方を変えて、さあ生きてごらんなさいと促す力に人は神によって出会わされて行くのだと私は思うのです。マタイはそのことを、学者たちが「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と記したのです。救い主に出会って別のところに行ったわけではない。新しい王が生まれたとすれば、それはユダヤの都エルサレムだろう、そしてその王は諸国の民を解放する力のある王だろうと思って出て来た国へ、彼らはまた帰って行くのです。ただし別の道を通って帰って行くのです。それは出発前に彼らが見ていたものとは違った視点から、自分が生まれ育って歩んで来た場所を受け取り直して生きて行く、そのことに気づかされて彼らは自分たちの国に帰って行った。マタイはそういう生き方の転換を一人一人に示すために、一人一人にもたらすために、この救い主は生まれたのだ。だからいろいろな人に知らせたい。密やかな誕生ではなくみんなが知っている。あとはそれを知った人がどう応えるのか、マタイはそのことを問いかけたのだと、私は思いました。

2018年1月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年1月14日(日)午前10時30分
降誕節第3主日
説 教:「わが子の旅が始まる」
牧師 望月修治
聖 書:マルコによる福音書1章9〜11節
招 詞:出エジプト記14章15-16節
交読詩編:36;6-10
讃美歌:24,206,68,515,91(1番)

※来週の礼拝場所は神学館礼拝堂です。

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