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2017年4月30日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.4.30 マタイによる福音書12:38-42「人の知恵、神のしるし」  望月修治    

◆ 「人々はしるしを欲しがる」、今日の箇所にはそのような小見出しがつけられています。キリスト教のしるしは十字架です。二千年前のイエスの時代、十字架はユダヤを支配していたローマ帝国に執行権があった、政治犯などへの極刑すなわち死刑の方法であり、呪われたしるしでした。その十字架を初代のキリスト者たちは自分たちのシンボル、しるしとしました。それは十字架の死に至ったイエスの生涯を覚え続けることが、イエスの福音を受け入れ生きる信仰にとって不可欠なことであったからです。イエスの福音を受け入れるとはどういうことか、そのことをイエス自らが語った言葉が今日の箇所に記されています。「ヨナのしるし」という言葉です。

◆ 「ヨナのしるし」とは旧約聖書の「ヨナ書」に記されている物語のことです。この物語の舞台は古代アッシリ帝国の都ニネベです。ヨナ書の背景となっている時代の都ニネベは堕落していました。神は怒ってこれを滅ぼそうとします。しかし悔い改めの機会を与えることにしました。神はその意志をニネベの人々に伝えるためにひとりの人物を選び出します。それがヨナです。しかし彼は神の召しに恐れをなし、船に乗ってニネベとは正反対のタルシシユへと逃げ出しました。ところが嵐が襲ってきて、それが神の怒りによるものだと知れました。それはヨナのせいだと判明し、彼は海に放り込まれました。巨大な魚がヨナを飲み込み、三日三晩、ヨナは魚の腹のなかにいました。その後、陸地に吐き出されました。神は再びヨナに命じます。「さあ、大いなるニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」 こうなったらもう逃げることはできません。ヨナはニネベの町に入り込んで「あと40日もすれば、ニネベの都は滅びる」と叫びました。するとニネベの町では予想外のことが起きました。ニネベの人々は皆断食し、身分の高いものも低いものも身に粗布をまとい灰の上に座って懺悔したというのです。それを見て神はニネベを滅ぼすのをやめました。これが「ヨナのしるし」とイエスが語ったことの中身です。

◆ 「ヨナのしるし」という言葉は、これまで次のように解釈されてきました。ヨナが大きな魚の腹に三日いて吐き出されたように、イエスもまた死んで三日目に復活する、それこそが天からのしるしだ、という解釈です。

◆ 教会でよく言われる言葉があります。「神さまだからなんでもおできになる。」 教会の世界ではたしかに正論です。しかしこうしたいわゆるお守り言葉は一切の疑問を封じ込め思考を停止させてしまう魔力をもっています。聖書の言葉の解釈も、時にそのような魔力をもつことがあります。「ヨナのしるし」をイエスの死と三日目の復活と解釈することで問題なしとすることも実は同じではないのかと思うのです。イエスは自分をヨナに重ね合わせています。それは確かです。しかしどういう意味で自分をヨナと重ね合わせたのでしょうか。従来の解釈は今の申し上げた通りです。しかしこの段階でイエスは十字架の死と三日目の復活という未来が分かっていたのでしょうか。私たちはイエスが神の子、救い主なのだから未来のことも分かっていて当然でしょうという見方を初めから重ねてこの物語を読み込んで、それ以外に考えられないと受け止めます。

◆ しかしそれは一種の思考停止状態に陥っていることはないでしょう。そもそも人間に未来がわかるでしょうか。未来がわかるという能力は人間にはないはずです。もし見えるのなら、未来はすでに決定されたものとし存在し、動かしようがないことになります。そうであるなら人間に与えられている自由意志は意味を無くします。起きてくる出来事がすべてあらかじめ運命で決まっていて、それ以外に生きようのないのだとしたら、人生に真面目に取り組む意味がありません。善悪をわきまえることも無意味になります。イエスに十字架の死も含めて未来が見えていたしたら、今日出会った人、明日出会う人、遭遇する出来事、すべてが分かっていて、イエスは行動するということになります。しかしそのようなことではないはずです。マタイ福音書も、十字架に架けられたイエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだと記しています。未来が見えてはいないから訴えたのです。「なぜわたしをお見捨てになったのですか。」 未来が見えないからこそ、人は悩み、苦しみ、美しい夢を見、希望を抱き、命がけで働くのです。ですから「ヨナのしるし」に関しても、この物語が、イエスが死んで三日目に復活することの予言だと解釈して終わりとしてしまうと、本来の意味を読み違えてしまうのではないかと思うのです。

◆ イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」という言葉に続けてこう語っています。40節です。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」 「大地の中にいる」という言葉は墓場あるいは地下の黄泉の国つまりは「死の国」のことだと解釈されて来ました。しかしもう一つ忘れてはならない意味があります。この言葉は異邦人の国をさす言葉でもあるということです。

◆ イエスは自分をヨナにたとえました。それは、ヨナが大魚の腹の中で過ごした三日三晩を自らの死と復活の三日間を予見するものと見たということではないと思うのです。そうではなくて、神に求められた使命があまりにも重すぎて異国へ逃亡しようとしたヨナの物語が、自分の生き方にそっくりなので、それを自分に重ね合わせて語ったということではないのでしょうか。イエスも神から与えられた重すぎるほどの使命を担って歩まれました。神の働きに強く押し出され、歩むイエスは炎のようです。神の思いを受け止め、燃え立たせてイエスは歩みました。しかし同時にその道は深い恐れや危険を覚えるものでもありました。イエスは葛藤しています。人間の生き方を損ね、尊厳を持って生きることを妨げている仕組みや習慣や伝統や人にイエスは立ち向かいました。しかしその度に騒動が持ち上がり、逮捕されそうになったり、石で打たれそうになって、逃げ、身を隠し、異邦人の地に逃れることもありました。そのような辛く厳しい逃亡の日々をイエスは「大地の中にいる」ことにたとえて語ったのです。それはヨナを飲み込んだ大魚の腹にもたとえられるものでした。「ヨナのしるしのほかは与えられない」と語ったのは、イエスの歩んでいる毎日がそのような日々であったからです。

◆ イエスがそのような生涯を歩んだことには深い意味がある、そのことを「ヨナのしるし」という言葉は示しているのだと思いました。イエスは私たちの救い主です。イエスを救い主だと感じ、納得させられるのは、イエスが寄り添ってくださる方だと実感するからです。イエスが語った言葉が、行き詰まった時に視点の転換を促す気づきを与えてくれたからです。そして寄り添われている温もりを感じ、深く息を吸い込んで歩み出せた体験を味わったからです。人は悲しみに打たれる時があります。悲しみが深まったとき、涙も乾き果ててしまうことがあります。そのような悲しみから人を救い出すのは何なのか、そのことを救い主としてのイエスは示したのだと思うのです。悲しみは理解されることよりも、温められることを待っているのではないか。そして悲しみを真に温めることができるのは励ましの声ではない、もう一つの別の悲しみではないのか。柳宗悦(やなぎそうえつ)という思想家がこんなことを書いています。「悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。」 悲しみから人を救い出すのはもう一つの悲しみである。救い主であるイエスの生涯は、そのことを私たちに納得させるのです。

2017年5月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年5月14日(日)午前10時30分
復活節第5主日
説 教:「あなたの居場所」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書14章1-11節
招 詞 :ヨハネの手紙Ⅰ 2章1-3節
交読詩編:98
讃美歌:24、165、504、196、91(1番)

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