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2021年7月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

コリントの信徒への手紙Ⅱ5章14節~6章2節「恵みの時を生きる」大垣 友行 

◆ 本日の箇所は、コリントの信徒への手紙二からのものであります。この手紙は全体として、コリントの教会の人々に対して、パウロ自身の使徒としての働きについて、弁明することを目的としております。パウロの手紙、各地の教会に宛てられた書簡は、それぞれに異なった目的を有しているわけですが、やはり全体として、信仰の道の途上で踏み迷っている人々を導き、励ますために筆を執っている、と言うことができるのではないかと思います。今回の手紙の場合も同様です。

◆ ここでパウロは、神について、キリストの福音を宣べ伝える自らの活動の正当性がどこにあるかを、この手紙によって示そうとしています。彼は二章で、「神の言葉を売り物に」する人について言及していますが、パウロが活躍していた当時は、いわゆる偽使徒のような人々も跋扈していたようなのです。こうした人々は、自分たちの知識や知見を、行く先々で切り売りして生活していた、「宗教や哲学の巡回教師」のような人々だったと考えられています。こうした人々が、コリントの教会に対しても一定の影響力を持っていた、ということになります。ですからパウロは、こうした人々、聖書の言葉を切り売りし、躓きを与えるような人々と、神から遣わされた本物の使徒としての自分自身の違いについて、弁明せざるを得ない状況にあったわけです。

◆ コリントの教会の人々のために弁明が必要になったのは、そうした事情によるばかりではありません。彼はこの第二の手紙に先立つ第一の手紙で、エルサレムの教会のために募金をするように、と勧めました。そしてそこで、ただ金銭的な援助を募るだけでは足りないと思ったのか、実際にコリントまで出かけますよ、と書き送っているのです。ところが、その計画はなかなか実現されずにいました。ですからパウロのことを、「行く」と言いながらも実際には来ない、二枚舌を使う奴だ、という見方が出始めていたのです。このようにしてパウロは、論敵との相違点、そして、コリント訪問を実際に行うかどうか、これらの二点について、正直なところを申し述べる必要に迫られたので、この第二の手紙を書き起こしたということになります。

◆ これらの二点について、パウロは、いずれも「誠実」というキーワードをもって、答えているように思います。第一の点については、2章17節、「誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」と述べています。また、第二の点については、1章12節、「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」と言っています。一見、裏切りともとれるような自分の振る舞いは、決して不実なものではなくて、むしろ神の恵みに基づく、誠実なものだ、と述べているのです。

◆ そして偽使徒は、真理に満ちているものそのものではなくて、いわばそれをダシにして、実のところ自分自身を宣べ伝えているものであります。彼らは自らに恃み、自らを推薦します。しかし、神から遣わされた本物の使徒は、そうではありません。自分のことは顧みずに、自分を遣わした神の福音を宣べ伝えるのです。だからこそ、アジア州で大いに迫害を受けた時も、彼は望みを失わなかったのです。

◆ 神はキリストを遣わし、キリストに結ばれる者を救われる神です。しかし、そうでない者は、死に至るというわけです。このことを宣べ伝えるために、パウロは働いているのですが、その訳を、彼はこのように述べています。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」と。「キリストの愛」とは、罪を背負って生きているわたしたちが、そこから解放されるように、という愛です。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」と言われていますが、たしかにわたしたちは、キリストと結ばれる者になった以上、過去の自分、古いものではありません。パウロは、この真理を伝達することを、自らの働きとしています。命に至る道を歩み始めた人々が、その途上で迷ってしまわないように、パウロは遣わされたのです。

◆ 人はしばしば、こうした核心的な事柄が見えなくなるものです。だからこそ、神によってもたらされた真理をしっかりと掴まえている人の存在が、どうしても必要になるわけです。神の和解の言葉は使徒に及び、そこから他の信徒に及ぶと言われています。こうした流れがあるからこそ、自分自身の役目が欠くべからざるものであると言うことが出来る。パウロはそう信じて、この手紙を書いたのだと思います。

◆ 先に申し上げましたように、パウロと対立する教師たちは、聖書の言葉をこの世の知恵に並ぶものとして、語ろうとします。彼らはどこまでも、「肉に従って」キリストについて語るわけです。パウロはそうではありません。彼は1章で、キリストの苦しみについて、イエスの受難について語っています。「キリストの苦しみは満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」。彼は、わたしたちに、イエスの受けた苦しみをわがものとするように、求めているわけです。しかし同時に、「わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている」と述べています。それを信じているからこそ、パウロもまた、自らを襲った苦難に耐えることができましたし、同じように、苦難の中にある人々を慰めることができた。彼はこの確信に基づいて、遠いコリントの人々への励ましを込めた手紙を書き送ったのです。

◆ かつて夏目漱石は、こんな風に書きました。「俳句に禅味あり。西詩に耶蘇味あり。故に俳句は淡白なり。洒落なり。時に出世間的なり。西詩は濃厚なり何処迄も人情を離れず」。つまりは、俳句というのは浮世離れしていると言いますか、世俗的なところがない。人間同士のしがらみに焦点を当てようとしていない。その一方で、西洋文学はどこまでも人情を離れることがない、と言うのです。

◆ このエピソードに触れて思いますのは、なぜ西洋文学が「何処迄も人情を離れ」ないのか、ということです。一つの仮説に過ぎませんが、人と人との交わりは、決してそれに尽きるものではない。あくまでも、キリストに結ばれていることが絶対的な条件にはなりますが、苦しみが行き来するところには、神からの慰めが確かに与えられるからではないでしょうか。もちろん、物語は現実の出来事と言い切ることはできません。小説の登場人物は、作家が作り上げた架空の存在に過ぎないわけです。ですが、その登場人物の苦悩が真摯なものであれば、わたくしたちは、共に知るという良心をもって、それに共感することができます。ぼんやり雲を眺めているだけでは入って来ない、本当の慰めが、苦悩への共感とともに訪れて来るわけです。作家たちがしばしば、人間の悲惨を克明に描き出そうとする動機は、もしかしたら、そのようなところにあるのかもしれません。

◆ パウロもまた、福音を伝えるという使命を帯びつつ、人々のところへ分け入って行きました。使徒としての働きが目に見えて成果を上げつつも、手ひどい迫害を受ける中で、かえって自分を救ってくれる神への信頼を堅くしたというのです。わたくしたち自身も、人と人との繋がりの中に深く分け入って、よいことばかりではなく、悩みや苦しみに満ちた場面をさえ、見届けようとしなければならないのかもしれません。

◆ 人は、傷を負わないように「禅味」を追い求めて生きることも出来ます。ですが、パウロの手紙を受け取ったわたしたちは、本当の慰め、恵みの時を今生きることが許されています。それならば、「何処迄も人情を離れ」ず、お互いを思いやり、主の苦しみを自らの苦しみとして、しっかりとキリストに結ばれた者でありたいと願います。

2021年8月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年8月8日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第12主日
説 教:「羊と蛇と鳩:福⾳の使者の旗幟(はたじるし)」
                教師 山本有紀
聖 書:マタイによる福音書10章16-25節
招 詞:詩編57編8-10節
讃美歌:29, 444(1,3節), 453(1,3節), 90(4節)
礼拝場所:同志社礼拝堂

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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