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2019年6月30日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.6.30 使徒言行録4:5-12「名前を呼ぶということ」      大垣友行  

◆ わたくしには妙な癖がありまして、飼い犬の名前を、その日その日で色々好きなように呼んでしまうのです。もう立派に名前をつけてもらっている犬の側からすると、来る日も来る日も変な名前で呼ばれるわけですから、きっと落ち着かないだろうと思って気の毒なのですが、なぜかやめられません。この心理を自己分析してみますと、それはやはり愛情のなせるわざではないかと思われてなりません。さらに、ジャック・デリダというひとが、次のように語っているのを読んで、意を強くしました。「彼はあるインタビューに応えて、『愛とはたぶん、surnommer(過剰に名づけること=異名をつけること)にあるのです』と語っている」(高橋哲哉『デリダ』、講談社、1998年、14頁)。わたくしも、飼い犬に対して日々湧き起こる愛情を、新しい名前という形で表現しているのですが、ちょっと迷惑かなと思い始めたものの、むこうからこう呼んでほしいと言ってくれるはずもなく、もう数年が経ってしまいました。こういう過剰な仕方でなくても、名前を呼ぶこと、命名することは、その対象との愛の関係を築く、という側面があるように思われます。

◆ 今日の聖書箇所は、ペンテコステの出来事を経て、教会の基礎が据えられたあとのことで、ペトロとヨハネの活動が、それをよしとしない人々の目にとまり、彼らが取り調べを受けるという場面です。そこでペトロは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」として、救いのわざがだれによってなされたかを、聖霊に満たされて、堂々と語っています。ところで、今日の聖書箇所で用いられている、「救い」という言葉、ギリシャ語では「σωτηρίᾱソーテーリアー」、動詞の方は「σῴζωソーゾー」ですが、この言葉は病などの「癒し」という意味も持っています。使徒言行録の別の箇所で、イエスが病を癒されたことに言及されていますが、使徒言行録において、すなわち、この文書を著した福音記者ルカの思想において、救いと癒しとは一体であります。そのことは、本日の招詞となった箇所、ルカ福音書の8章46節以降においても、同様の言葉が用いられていることから分かります。その少し前の、ルカ福音書8章42節から、万策尽きてなお出血が止まらず、苦しんでいた女性の話があります。彼女が、やっとの思いでイエスに触れると、ただちに出血が止まり、癒されたというのです。48節でイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と述べますが、そこで使われている「救った」という言葉は、ギリシャ語では「σέσωκενセソーケン」となっており、これはすでに申し上げました、「σῴζωソーゾー」という動詞の完了形です。この動詞も、救うということと癒やすということとの、両方の意味を持っています。この動詞の完了というアスペクトは、癒しとしての救いのわざが、まさにその場面において完成したというリアリティを物語っていると思います。そのことは、使徒言行録でも、ある事象の一回性を示す表現である、アオリストの不定詞が用いられていることから、伝わってきます。なお、この「あなたの信仰があなたを救った」という表現は、いわゆる共観福音書に共通して見られる表現であります。例えばマタイ福音書9章22節、マルコ福音書の5章34節および10章52節、そしてルカ福音書ではここの他に、17章19節、18章42節において、それぞれ全くこのままの形で現れます。

◆ シモーヌ・ヴェイユという哲学者は、「神の愛と不幸」というエッセイのなかで、不幸は単なる苦痛ではない、という趣旨のことを述べています。確かに、不幸は苦痛の一種であります。しかしながら、不幸はひとの魂をとらえて、つかんで離さないだけの力がある、といいます。さらに、不幸は肉体的な苦痛を伴うものだとも言っています。ヴェイユは、肉体的な苦しみを伴わないならば、どんな悲しみであれ、ほんとうではない、単に感傷的なものにすぎない、と言っています。ほんとうの意味で不幸に苛まれているひとは、その魂に奴隷の刻印を押されている、とまで言います。文字通りの奴隷制度を有していた、古代ローマの人々はこのことを知っていたので、「人は奴隷になった日に魂の半分を失う」と言いました。ヴェイユの見るところでは、不幸の刻印を押されたひとは、自分の魂の半分しか自分のものにならない、ということです。不幸にさいなまれる人に同情することはむずかしく、神の目を借りないでは、それと見通すことができません。不幸はこうして人を孤独にしますが、さらに神さえも不在にするのだといいます。ヴェイユは、注意深く、不幸と単なるセンチメンタリズムとの境界線を引いてから話を展開しておりますが、同時に、わたしたちが生きているこの時代のことを、「すべての人の頭上に不幸が迫っている時代」とも呼んでいます。それならば、だれでもが、潜在的には不幸のただなかにはまり込んでいってしまう可能性があるということを、自覚させられずにはいないという感想を持たざるを得ません。ともあれ、ルカ福音書に登場したあの女性もまた、ヴェイユの言葉を借りれば、「不幸」に苛まれていた人、ということができると思います。そこでわたしたちも、イエスが行われた癒しのわざにあずかりたい、そのわざが完成する場面に立ち会って、その喜びと平安と、リアリティを味わいたい、そのように切に思われてまいります。ですが、イエスはすでに天に帰られて、わたしたちには、その衣についている房に触れることさえかなわないのです。それでは、わたしたちは、どのようにすればよいのでしょうか。

◆ そのヒントは、神様の名前に関する、聖書の別の箇所の中にあると思います。出エジプト記の3章14節から15節にかけて、モーセの求めに応じて、神様はご自分の名前を明かされます。そのあとで神様は、「これこそ、世々にわたしの呼び名」と言っておられます。この「呼び名」と訳されている言葉は、いずれも記憶や記念といった意味を持っている言葉です。神様は、世々に渡って、御自分のお名前が記憶され、伝えられてゆくことを望んでおられるわけです。またさらに、聖書日課の、今日のところを見てみますと、参照するように指示されている箇所が、もう一つあります。申命記の8章11節からです。この部分の趣旨は、主を忘れてはならない、という警告です。ではどうしてこんなにも、神様はご自分のことを忘れるなよ、と、口を酸っぱくしておっしゃるのでしょうか。再びシモーヌ・ヴェイユを引きますと、ヴェイユによれば、神様の名前というのは、神様がわたしたちに与えてくださった約束だからです。ヴェイユは、仏陀が自分の名をとなえるすべての人を救うという誓いを立てたことを例にとって、宗教とは神の約束だ、と言っています。彼女によれば、礼拝というものは、結局神様の名前を唱えることなのだ、と述べております。神様は、わたしたちをお救いになりたいと願っておられ、御子をお遣わしになり、その約束を果たそうとされているのです。それならわたしたちは、神様が約束を守って、わたしたちを救ってくださる方であると信じて、礼拝をし、そのなかで主なる神様の名前を呼ぶことができると思います。仏教だけではなくて、ユダヤ教、またキリスト教の中に、こうした伝統は確かに存在してきたと思います。そのことは、さきほど、ご一緒に交読いたしました詩編からも、分かります。わたしたちは、礼拝の中で、わたしたちに与えられた神様の名前を呼ぶことによって、神様がお望みになっておられることに応えることになります。

◆ 私たちに与えられている、救い主のお名前を、しっかりと捉え直して、これからの日々の歩みの支えにすることが許されています。この唯一の名前を通して、平和と安心とを願いつつ、御名に望みを置き、いままさにそこでわたしたちが生かされている状況を見つめ直したいと思います。

2019年7月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年7月14日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第6主日
説 教:「幻の物語を聞いてほしい」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録11章4〜18節
招 詞:ルカによる福音書17章14〜15節
交読詩編:22;25-32
讃美歌:25,152,520,398,91(1番)

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