SSブログ

2016年12月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2016.12.25  ヨハネによる福音書1:1-14「初めに神の思いがあった」  望月修治   

◆ 正面の壇上のクランツのロウソクが5本になり、5つのあかりが灯されています。今年は12月25日がちょうど日曜日となり、本日は文字通りのクリスマス礼拝を守っています。アドベントクランツには4本のロウソクが立てられ、アドベントの第1週から順番にあかりが灯されてきました。アドベントクランツは19、20世紀頃ドイツで始まったと言われます。12月25日のクリスマスを迎えて立てられるロウソクの色は白です。この白いロウソクはキリストという光を象徴しています。

◆ アドベントという言葉の語源はラテン語の「アドヴェニーレ」で、「何かが起こってくる」「ある事件が起こってくる」「思いがけないことが自分の前に現れてくる」という意味です。クリスマスにおいて「思いがけないこと」とは何であったのか。それを福音書記者のヨハネは3:16で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という表現で語っています。新約聖書の原語であるギリシア語は、文章を綴るときに一番強調したいことを文の冒頭に置き、二番目に強調したいことを文の最後に置くという形で構成されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という文章は、日本語では<神>が一番最初にきていますが、ギリシア語の文章で冒頭にあるのは「〜になったほどに愛された」という言葉です。これが一番強調されているのです。最後にあるのは<世>という言葉です。したがって3:16の文章では<神>という言葉は実は「〜になったほどに愛された」という言葉と<世>という言葉と、この強調された二つの言葉に挟まれて目立たなくなっている、そういう構文になっているのです。そしてここにヨハネが語ろうとしたクリスマスのメッセージがあるのです。神は御自分が消えて目立たなくなってしまうほどに自分を押しとどめて愛したのが「この世」であった、というのが福音書記者ヨハネのクリスマスメッセージなのです。

◆ ヨハネはこの世を「暗闇」と表現しました。悲惨さや嘆きや苦しみがそこにもあそこにもたくさん癒されないままにあり続けている世界だと見たのです。その悲惨さの中に生きる人間に向かって、神は関わり、働きかけたのです。ではその神の関わり方はどのようなものであったのかと言えば、それは「その独り子をお与えになるほど」に愛するということであったとヨハネは語っているのです。「独り子」という表現は別の言い方をすれば「神にとって最も大切なもの」ということです。私たちは最も大切なものを手放したくはありませんから、表に出さず自分の手元に置いておこうとすると思います。福音書記者のヨハネはこの具体的なことを手がかりにして、神による出来事としてのクリスマスを受け止めてほしいのだと語っているのではないかと思うのです。私たちにはとても大切にしているもの、愛おしんでいるものがあります。神にもそれはあるのです。人は自分の持っているものを差し出す時には、躊躇したり、決断に時を要したりします。神はその大切なものを与え尽くした、それがクリスマスの出来事なのだとヨハネはいうのです。

◆ 私たちは自分たちの側からつまり受け取る側からのみクリスマスを考えます。しかし与える側にとってのクリスマスとはどのようなものであったのか、その視点から考えてみることをヨハネは促しています。少し極端な言い方をするならば、大切にしておきたかったものをみんな残らず与え尽くして、神の手元には何も残ってはいない、空っぽになってしまった、それがクリスマスなのだということではないでしょうか。しかもそれはあくまでつつましやかになされたことであったとヨハネは受け止めています。

◆ ヨハネはこの世を暗闇と表現していますが、人はそれぞれに本当に悲しくて、誰にも言えない、そんな体験をもちます。そういう中に入ってきて、その間に宿って、今まで独りだと思っていたその人に「そうではないよ」とそっと語りかける。たとえて言うなら、そのような出来事としてイエスの誕生を位置づけたのがヨハネです。「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」・・・・これは神が起こした、ただ事ではない出来事としてのクリスマスを伝えるべく、思いを込めて記された言葉です。

◆ 釜ケ崎でケースワーカーとして働いておられる入佐明美さんが釜ケ崎の日雇い労働者の人たちとの日々を綴っておられます。入佐さんは、1980年1月から釜ケ崎でケースワーカーとして働きはじめました。その頃の体験を綴っておられます。ケースワーカーとして毎日ひとりひとりに関わって汗を流して走り回る日々が続きます。しかしいくら走り回っても釜ケ崎の状況はよくなりません。無力感に襲われ元気をなくしていきました。そんな入佐さんに「元気ないなあ、どないしたんや」と50過ぎの労働者がポンと後ろから肩をたたきました。今の気持ちを素直に話してみました。うなずきながら聞いてくれたその人は「姉ちゃん、あんまり大きな事考えんとき。姉ちゃんが死ぬ気でがんばっても釜ケ崎はようならんで。結核もへらへんで。けどな、姉ちゃんは街を歩きながら『おじちゃん、こんにちは』ちゅうて声をかけてくれるだけでええんや。そのことがわしらのはげみになるんや。そして話をしんみりと聞いてや。みんな話し相手を求めてるさかいに」・・・・乾いた脱脂綿が水を吸うように、私の心に言葉がしみてきましたと入佐さんは書いておられます。

◆ 体調を崩し一日寝て次の日は働くそんな日々が続いたことがありました。疲れ果てた入佐さんにひとりの労働者が声をかけてきました。「姉ちゃん、自分のこと大切にせなあかんやないの。自分のこと大切にでけへん人は他人(ひと)のこと大切にでけへんで。自分のことを本当の意味で愛してこそ他人のお世話が出来るんや」・・・・入佐さんはこの労働者は間違っていると思いました。人のために犠牲になってこそ最も美しい愛だと信じていたからです。しかし疲れ切った自分の暮らしを振り返って、自分を愛するとはどういうことかを少しづつ考えるようになり、まず自分の生活を大切にしてみました。音楽を聴き、絵を鑑賞し、小説を読む時間を作り、自分を喜ばせるように努力してみました。すると不思議なことが起こったと入佐さんは言います。自分を大切に出来ることは、自然に他人のことも大切に出来る。自分を愛せる分量だけ他人を自然に愛せる。そこには無理がないのです。

◆ 不景気は釜ケ崎を直撃します。多くの労働者が仕事にあぶれました。「姉ちゃんはええな、ぶらぶらしてご飯が食べれるんやから」そんな声が聞こえたのはその頃でした。ある夜、仕事を終えて家路へと駅に向かって歩いていました。途中、路上には十数人の人たちが寝ていました。寝ていたひとりの労働者が起きあがりました。「姉ちゃんは帰る所があってええなあ」と言われるだろうと入佐さんは覚悟しました。「ごくろうさん」「こんなにおそうまで大変やな」「姉ちゃん、明日もおいらのためにがんばってや。気つけてかえりや」何人かの労働者が次々に声をかけてきました。気がつくと後ろから着いてきている労働者がありました。「おもいやろ」そういって入佐さんが両手に持っていた荷物を持って、駅まで一緒に歩いてくれた。電車が来て労働者から荷物を受け取り電車に乗ります。その人は体全身で手を振って見送ってくれました。

◆ 自分自身の存在がおびやかされているのに、なぜ他者に優しくできるのだろうか。自分のお腹はペコペコなのに、なぜ他者の労をねぎらえるのだろうか。入佐さんと釜ケ崎の労働者の人たちとの間に宿るものの奥深さを思います。人の世の闇路に宿るために神は旅人の姿をとって私たちのもとを訪れる。そして間に宿り思いがけない命への語りかけを届けるのです。

2017年1月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年1月8日(日)午前10時30分
降誕節第3主日
説 教:「止めるな、今は」牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
3章13-17節
招 詞:サムエル記16章5b-7節
交読詩編:2
讃美歌29 、148 、280 、278、91(1番)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

※また次週は礼拝後、栄光館玄関ロビーにて、おしるこの会が行われます。こちらもどなたでもご参加ください。



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。