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2018年9月30日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2018.9.30  ヘブライ人への手紙 6:4-12       「契約の仲介者」(髙田)               

◆ 本日の聖書箇所を皆さんはどう思われただろうか。一度キリスト者になってから再び堕落する、例えばキリスト教を捨てる、あるいはキリスト者に相応しからぬ罪を犯すなどということがあったなら、もうその人は救われることはないと書かれている。脅しのような形で宗教に人を縛り付けようとするような言い方は、なにか嫌なものに聞こえる。実際、この箇所を用いて、一度キリスト教信仰を捨てたものをどうするかについて、議論が為されてきたという歴史もある。

◆ こうした箇所がこういう形で与えられていることから浮かび上がる問題の一つは、礼拝においては聖書の言葉が聖書全体から切り取られて提示されるということである。礼拝に参加するものはそうして与えられた聖書の言葉を、神の言葉として受け取ろうとする。しかし、昨今、新潮社が掲載したLGBTの問題に対する差別的な記事が世を賑わせているが、そういう基準で行けば聖書も、世間の非難を免れ得ないような差別的な言葉を沢山収めている。そういう箇所は礼拝で読むべきではない、ということになるだろうか。しかしそうだとしたら、逆に今を生きるわたしたちに都合のいいところばかりを切り出して読んでそれでいいのか、という疑問が出てくる。

◆ 次の問題は、こうした箇所が聖書日課に従って、そして教会暦の歩みの中で与えられているということである。教会暦は礼拝にテーマを与え、聖書日課はこれに従ってその日読むべき聖書箇所を指定している。これは長い歴史の中で作り上げられたもので、聖書全体の中から取り出されてくる本質的なメッセージと、キリスト教信仰の様々な局面を明らかにするように、工夫がなされている。ただもちろん人間の工夫であり、あくまで一つのツールである。それ故、時に受け取るのが難しい聖書箇所が与えられることがあり、これをどう考えるのか、問題となる。

◆ わたしたちが使っている聖書日課は、日曜日には教会暦に応じて一つの主題が掲げられ、これと関連する4つの聖書箇所が、旧約、詩編、福音書、新約のそれ以外から選ばれている。この4つのうち、特にこれという箇所が太字で示されている。本日の場合はヘブライ書である。この箇所が何を言いたいのかと悩みつつも、指定通りにヘブライ書の箇所を選んだのには、ささやかな動機づけというか、潜在意識に働きかけるものがあった。それは、先週、先々週と多くの教会で太字の箇所が避けられ、福音書から説教がなされていたことである。説教者が聖書の箇所をえり好みして、難しいのは選ばないというのはいいのだろうかと思わされていた。

◆ とはいえ、これらは潜在意識に働きかけただけのもので、主には成り行きで聖書箇所を選んだ。その原因は、夏休み中、カント研究に取り組んでいて余裕がなかったからである。しかしこの研究の方からも、今回の聖書日課に従った選択をさせる動機づけが与えられていた。カントは難しい哲学で知られているが、聖書についてもあれこれと言っている。問題は、聖書の使い方、読み方であった。聖書が歴史物語を語っていることは、わたしたちには言うまでも無いことだと思われるが、カントは哲学者として、聖書の歴史信仰にはあまり意味がないと言うのである。

◆ 礼拝では短い聖書の箇所しか読まないのだから、それについて説教するのに、聖書の歴史の知識を前提にして話すのは意味がない。書いた人の考えや時代背景などは、聖書の学者にとっては面白いかもしれないが、今を生きるわたしたちには大して関係がない。寧ろ、道徳的な考え方、「神の精神」に従って、聞くものの心に届くように、その道徳的な意欲を刺激するように説教をしないといけない。だから、本日の箇所のような道徳的解釈に不向きな箇所は、聖書の元々の意味を離れても、道徳的に自由に解釈しないといけない、と。

◆ カントのこうした文句には、説教者としては、全面的に同意できなかった。それはやはり、聖書が単なる有り難い格言集ではなくて、歴史物語であり、歴史的な文書だからである。カントは哲学者として関心を向けなかったが、イエス・キリストの十字架と復活の意味、そしてこれを通してこそ現れてくる「愛である神」は、聖書全体を一つの大きな歴史物語として、神の物語として受けとめることができた時にこそ、はっきり理解することのできるものになる。そして、その理解の上に、新約聖書と旧約聖書のそれぞれの言葉の響きのなかで浮かび上がってくる信仰がある。教会では、こうして教会暦や聖書日課を用いて、短い引用の形で切り取られた聖書の箇所をきっかけにしながらも、単に道徳的ではない、そういうキリスト教信仰の本丸を浮かび上がらせようと工夫する。そしてそのことが聞く者の心を動かして、信仰を生み出し、そこから道徳的な行為に向かう力を与えることを期待している。

◆ 研究を進める中で覚えたカントへの反発からも、ヘブライ書に挑戦することになった。しかし、あれこれ読めば読むほどに、これはもうどうにもならないのではないかという所に辿り着いてしまった。本日の聖書日課の主題は「執り成し」であった。旧約聖書の指定は、イスラエルの民が金の子牛を作って拝み、神に背いた箇所で、民を滅ぼそうとする神にモーセが執り成す場面である。福音書は、ゲツセマネの園でユダが裏切りにやって来る場面であった。全体として、人間の罪とその執り成しという主題についての理解が深まるように設定されていることがわかる。そうしてみれば、今日のヘブライ書の指定から浮かび上がってくるのは、罪深い人間のために、罪のないキリストが十字架に架かって死んで、復活して天に昇って、そのことで執り成しをしてくださった、というメッセージであろう。しかし、ヘブライ書はその執り成しは一回切りなのだと言う。

◆ 当時、エルサレムの神殿では、一人の大祭司が人々の罪の執り成しのために、神に犠牲の捧げものをしていたが、それはもう無用になった。なぜならイエス・キリストが新たな大祭司として、人の罪のために執り成しをしてくださったから、すなわち、自らを人の罪の犠牲として十字架において神に捧げてくださったからだ、というのがヘブライ書の主張である。そんなふうにキリストが神と人の契約の仲介者になって、わたしたちの罪の贖いをしてくださった。しかしそこで再三にわたって強調されているのは、その大祭司イエスの執り成し、罪の贖いが一度切りだということである(10.26)。

◆ さて、わたしたちはこれをどう聞いたらよいか。もちろん、信仰にはそういう厳しい面があることは確かかもしれない。しかし問題は、結果的にこれを脅しの形で、恐れを引き起こす形で与えているということである。これは明らかにキリストの精神に反している。なぜなら神は独り子を十字架につけてまでして、すべての恐れを包み込み、その愛を示される方だからである。本日歌った賛美歌338番の歌詞「み神のもとでは、仲保者として、主イェスは変わらず、今もとりなす」、これはローマの信徒への手紙8章34節の言葉である。ヘブライ書の考えは、そうしたパウロの考えと対照をなしている。

◆ これらのことをどう受け取ったらよいか、皆さんもヘブライ書にチャレンジしてみて欲しい。いずれにしても、初期キリスト教の一つの断面、教会指導者の苦悩をヘブライ書は描き出しているだろう。わたしたちもそこに学ぶところがあるかもしれない。あるいは、時にはわたしたちも、そうした厳しい言葉を受けとめて、特に明治期の先達が深く意識していた、キリスト教信仰の厳しさというところに思いを向ける必要があるのかもしれない。

2018年10月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年10月14日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第22主日 神学校日
説 教:「信仰によって」
大垣友行神学生
聖 書:ヘブライ人への手紙11章23〜28節
招 詞:出エジプト記2章17b〜19節
交読詩編:26;1-12
讃美歌:27,186,227,458,514,91(1番)
◎転入会式を行います。

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