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2018年10月7日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.10.7 使徒言行録5:27-42 「命令違反」        望月修治       

◆ 使徒言行録を書くにあたって、ルカは教会がエルサレムから始まったことを冒頭に記し、読む者に印象づけます。エルサレムは弟子たちがイエスを裏切り、見捨て、逃げ去った場所です。ですから早く立ち去りたい場所です。しかしそこに彼らはとどまりました。復活のイエスが「エルサレムから離れるな」と彼らをとどめたからです。それが、教会がエルサレムから始まった理由であるとルカは記します。使徒言行録の核心がそこに明確に示されます。教会は弟子たちの熱心と勇気と努力と信仰によって始められたのではないこと、人間の努力や頑張りや力量を超えた不思議な力が彼らを押し出し、教会が生まれた、それが使徒言行録の最も大事なメッセージです。

◆ 今日の箇所の29節に「ペトロと他の使徒たちは」とあります。ペトロは福音書でも、弟子達の中でいつも一番に名前が挙げられています。ある時には、イエスに向かって「あなたこそ生ける神の子です」と言って、ほめられています。(マタイ16:15-20)ペトロ(岩)という名前はその時にイエスからもらったものです。イエスはこの岩(ペトロ)を堅い土台として、その上に教会を建てるとも言われました。しかし彼は「どんなことがあってもついて行く」というイエスへの約束を反故にしました。よくユダが裏切り者と言われますが、しかし彼はイエスを敵に引き渡しただけです。イエスの信頼を裏切ったのはペトロです。情けない人物、自分の都合しか考えない、いくじのない男、それがペトロです。

◆ そのペトロが今日の箇所では、ユダヤの最高法院に立たされ尋問を受けるという窮地に立たされているにも関わらず、イエス・キリストの十字架と復活について、大祭司や議員たちに面と向かって語っている様子が語られています。この前夜、ペトロと他の使徒たちは捕らえられて「公の牢」に入れられていました。公の牢というのは大祭司の官邸の地下にあった牢のことだと言われます。大祭司は当時のユダヤ社会の体制側の頂点に立つ存在でした。ペトロは権力の側から睨まれ、捕らえられ牢に入れられてしまったのです。最高法院に立たされたのはその翌日です。恐怖に震え萎縮してしまう状況です。しかしペトロはこう言ったのです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました」。イエスを処刑した側の権力者に、このようなことを面と向かって言うなど、命とりになってしまいます。大袈裟ではなく、自分の命を賭して、キリストのことを語っているのです。

◆ さらにペトロがこのことをいうのは初めてではないのです。4章で、ユダヤの当局者たちが、イエスの名によって癒しを行い町中の評判になっていたペトロとヨハネに不安を感じて、二人を逮捕したことが記されています。当局者たちにとって、イエスを逮捕した時、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったのですから、イエスを処刑してしまえば、もうイエスのことを声高に語り歩く者はいなくなったはずでした。ところがペトロとヨハネがイエス・キリストの名によってということで活動を始めた。そして民衆の評判になっていった。何たることか。そこで当局は二人を逮捕し、そして二度とイエス・キリストの名によって活動してはならないと脅迫した上で、二人を釈放したということがあったのです。この言葉の裏には、今度イエス・キリストの名によって語ったり行動したりしたら、お前たちが「主」と信じたものと同じ目に合うぞ、という脅しがあります。国家による脅迫、これは震え上がるほど恐ろしいことです。権力を握っている者は何でもするからです。

◆ それなのに、ペトロはまた同じことをしたのです。命令違反を繰り返すのです。これはペトロ自らの力ではなく、このペトロに何か大きな力が働いているとしか言いようがありません。ではその大きな力とはどのようなものなのでしょうか。今日の箇所の後半で、いみじくもガマリエルという律法の教師がそのことに触れています。ペトロや他の使徒たちなど殺してしまえと怒る最高法院の議員たちを諌めて、ガマリエルはこう語っています。38-39節です。「ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」神の力がペトロたちを突き動かしているのかもしれない、それを見極めたらよいというのです。神の力だ、といえばことは簡単ですが、具体的に神の力とはどういう力なのでしょうか。どのように人に働くのでしょうか。人にとってその力とはどのように形で体験するものなのか。味わうものなのか。そこが知りたいのです。

◆ 解き明かす手がかりは、この使徒言行録のはじめの記述にあるのではないかと思いました。イエスを見捨て裏切った弟子たちに、復活のイエスは「エルサレムから離れるな」と命じられたと、ルカは記しています。この言葉はよく思いをめぐらしてみたい言葉です。先ほど申し上げましたように、エルサレムは十字架の出来事において弟子たちの破れ、弱さ、醜さ、至らなさが露わにされた場所です。そこから離れるなというのは、この弟子たちを受け入れる、そのままでいいからと宣言することではないか、と思うのです。エルサレムから離れずにいたら、あなたたちを生まれ変わらせてあげよう、強くしてあげよう、勇気をあげよう、そうしたら反対されても、脅迫されても「イエス・キリストの名によって」と語り、臆せず活動することができるということではないと思うのです。今より強くなったら、とか勇気を持てたら何かができるというのではなく、人は今の自分をそのままに受け止めてもらえたら、そこから変わり始めるのです。弟子たちはエルサレムから離れずにいることで強くしてもらったのでありません。破れている自分、惨めで無力な自分を受け止めてもらえた、その赦しと受容をエルサレムで深く深く体験したのです。そして彼らは大きく息を吸い込み、押し出され、使徒言行録に記されている歩みを結果として残した人たちなのです。

◆ 「学校に行きたくない君へ」という本が8月に出版されました。この本は「不登校新聞」という日本で唯一の不登校専門紙に掲載されてきたインタビュー記事から選んだ20名の記事がまとめられて出版された本です。最初に収録されているのは、先日亡くなられた樹木希林さんへのインタビュー記事です。インタビューの最後に「自分の子どもが不登校やひきこもりだったら、親としてどう向き合えばいいのかについて教えてください」と問われて、樹木希林さんはこう答えました。「きっと自分だけ助かる位置にいたんじゃダメなんだろうと思います。自分も降りていかないと。親も子も今の環境や状況を選んだわけじゃないだろうし、そうせざるを得なかったのかもしれません。でも、それはそれで親子ともども一緒にやってこう、路上でも一緒に生活しようという覚悟を私ならすると思う。お釈迦さんがね『人間として生まれることはきわめて稀なことだ』と言っているの。だったらね、行き続けなきゃ、もったいないじゃない。」 「路上でも一緒に生活しようという覚悟を私ならすると思う。」この言葉が浮かび上がり、わたしの中に飛び込んできました。

◆ 「エルサレムを離れるな」とイエスが語ったのは、自分は復活し助かる位置にいてそこから「お前たちは」と語られたのではなく、イエスを裏切り、否定し、見捨て、逃げ去った惨めさに打ちのめされている、それなら、そこで一緒に歩もうと覚悟している、だから「エルサレムを離れるな」、離れなくていい、ということではないのか。神はそのためにイエスをこの世に派遣された、神の力はそのイエスを私たちに寄り添わせることにおいて示され、届けられるのだと思うのです。

2018年10月21日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年10月21日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第23主日
説 教:「すべての隔てを越えて」
牧師 髙田太
聖 書:ヨハネの黙示録7章 2〜4節
9〜12節
招 詞:イザヤ書25章7〜8節
交読詩編:146;1-10
讃美歌:25,3,574,575,91(1番)

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