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2018年10月14日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.10.14 ヘブライ人への手紙11:23-28 「信仰によって」    大垣友行  

◆ 今朝の聖書箇所には、先程お読みいただきましたとおり、ヘブライ人への手紙を選びました。九月末、高田先生がお説教の中で触れておられましたけれども、この手紙自体、解釈が難しいところがありますし、また一般的には、聖書日課にしたがってメッセージが準備されるわけですが、その際同時に与えられる他の御言葉との関連によって、さらに解釈上の余地が広がるものでもあるようです。迷った挙げ句、「チャレンジせよ」という声にしたがって、あえてこの手紙を選んでみたということになります。

◆ さて、この手紙は、まさに「手紙」と呼ばれているのですけれども、パウロのそれのように、挨拶が述べられることもなく、いきなり本論に入ってゆきます。また、「ヘブライ人へ」と言われておりますけれども、実際は、信仰が脅かされつつあった異邦人キリスト者たちに向けて書かれたものであった、と見られているようです。そのせいか、この手紙はある種の論文、または説教を集めたものと考えられ、そしてその基本的なメッセージは、忍耐をもって信仰を堅持するようにとの勧告であり、これを神学的な議論が支えている、ということになろうかと思われます。

◆ 本日の箇所は、いま述べましたような、倫理的な勧告を裏づけるために、旧約の登場人物たちの信仰を、アベル・カインから始めて、一つ一つ例として数え上げているところで、特にモーセに関する部分であります。すでにモーセについては、3章で、イエスとの比較において語られているのですけれども、このようにこの手紙の作者は、旧約聖書の内容をきわめてよく知る人物でした。詩篇からの引用が特に多く見つかります。そして確かに、彼が語っているように、モーセは、カナンの地における繁栄を告げる神の御言葉を信じて、同胞のイスラエル民族を伴って、それにしたがったのです。

◆ こうして11節では、モーセの他にも、神に信頼して振る舞った人々について語られているのですけれども、彼らはいかにも力強く、信仰篤き人々であります。ある者は、神の命令の理不尽さにもかかわらずこれを履行しようとし、またある者は、迫害を甘んじて受け、これに耐えました。そしてこれらの例を挙げたあと、十二章の冒頭で、ヘブライ書の著者は、イエスを見つめながら、自分に定められている競争を、忍耐強く走り抜こうではありませんか、と、手紙の受信者に向かって勧めているのです。

◆ この勧告が、棄教が現実的に迫りつつあったキリスト者たちにとって、心強く感じられるものであったということは、想像に難くありません。彼らもまた、具体的な励ましを欲していたことでしょう。七度繰り返される「信仰によって」という言葉は、表現としていかにも美しいものです。しかしながら、現代を生きるわたしたちは、これを読んで少なからぬ困惑を覚えるのではないでしょうか。もちろんわたしたちには、ヘブライ書の著者が挙げたような、旧約の人物たちが体験した、苛烈な迫害などは、いまのところそれほど差し迫ったものとして実感することができません。ですが、他の様々な事柄を理由として、わたしたちの信仰もまた、日々揺れ動きます。その理由は人間関係であったり、金銭的なことであったり、様々でしょう。このように、堅い信仰を守り抜いた人々について知り、また先程皆様とご一緒に交読いたしました詩篇にあらわれております謹厳さに触れて、わたしたちの心は励まされるというよりも、一種の不安に晒されるのではないでしょうか。本当に、最後まで、わたしたちは、走り抜くことができるのだろうかと。実際、わたしたちは、他者のために生きようとして果たせず、金銭や財産を捨てようとして捨て得ず、勧告に従って堅い信仰を持とうとして、ついにそれを貫き通しえない――のかもしれません。ヘブライ書の著者が述べているように、大祭司と呼ばれておりますが、イエス様がわれわれのために、その体を捧げ物としてくださり、わたしたちの罪をあがなってくださったのですけれども、わが身を振り返ってみるとき、身動きが取れなくなって、気力を失い、疲れ果ててしまった、一人の罪人の姿を見いだすということが、しばしばあるのではないでしょうか。そして、自分の信仰の弱さにがっかりする、ということも、またしばしばであります。

◆ 八木重吉という詩人がおりますが、ご承知の通り彼は、クリスチャンでもありました。それで、「私の詩」と題する、次のような詩を残しています。題名のあとに、「私の詩をよんでくださる方へささぐ」とあります。
「裸になってとびだし/基督のあしもとにひざまずきたい
しかしわたしには妻と子があります/すてることができるだけ捨てます
けれど妻と子をすてることはできない/妻と子をすてぬゆえならば
永劫の罪もくゆるところではない/ここに私の詩があります/これが私の贖《いけにえ》である
これらは必ずひとつびとつ十字架を背負うている/これらはわたしの血をあびている
手をふれることもできぬほど淡淡しくみえても
かならずあなたの肺腑へくいさがって涙をながす」
重吉のこの詩は、先程述べたような苦しさ、切実さにおいて、日常的なそれからはかけ離れていますけれども、そうした苦しさを、うまく掬い取っているのではないかと、思えてなりません。捨てようとして捨て切れないものがある、これが人間の有限性であります。矛盾に苦しむということそのものにおいて、重吉は彼の「詩」を見ているのだと思います。
 もちろん、わたしたちが味わう後悔や苦しみは、質的に言って重吉のそれとは違っているかもしれません。そして、具体的に文学のかたちをとって、表現されるようなものでもないかもしれません。ですが、自分の弱さを真摯に見つめるとき、重吉の言葉を借りれば、そこにはわたしたち一人一人の詩があるのだと言ってもよいのではないでしょうか。そしてわたしたちと同じ弱さを知っておられる主は、そうしたわたしたちの苦しみ、わたしたちの詩を、聞き届けてくださる方ではないでしょうか。わたしたちには、主がそのような方であると信じて、その「肺腑にくいさがって涙を流す」ことが許されているのだと思います。

◆ 本日、わたしたちに与えられております、新約聖書の箇所は、もうひとつあります。マルコによる福音書、十四章六十六節から七十二節であります。この箇所は、イエスが逮捕された後、イエスが予告したとおり、難を逃れようとしたペトロが、イエスのことを知らない、と偽ってしまう箇所です。七十二節でペトロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエスの言葉を思い出して、いきなり泣き出しました。この件は、ヘブライ書の著者が列挙してみせたような、堅い信仰とは対極にあるものです。ですが彼の涙もまた、いわば「肺腑にくいさがって」流す涙ではないでしょうか。主イエスは、彼にもまた、「それでいいんだよ」と言ってくださる方であると思います。
 わたしたちは、倫理的な勧告にしたがおうとして、それが果たせずに苦しみます。ですが、必ずイエス様は、わたしたちを許してくださり、共にいてくださるのだと思います。どうか、わたしたちも、どこか割り切れない、ゆらぎと不安のなかにありながらも、常に共にいて下さる主の恵みに信頼して、あきらめず、忍耐強く歩んでいきたいと思います。

2018年10月28日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年10月28日(日)午前10時30分
降誕前第9主日
説 教:「同じ土俵に上がれるのか」
牧師 望月修治
聖 書:ヨブ記38章 1〜18節
招 詞:ルカによる福音書12章22〜23節
交読詩編:147;4-11
讃美歌:28,2,165,224,91(1番)

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