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2021年9月26日(日)の説教要旨  [説教要旨]

説教要旨 2021.9.26 コヘレトの言葉3:1〜13 「永遠を思う心」  大垣友行   

◆ 現在、第1水曜日ぶどうの会では「コヘレトの言葉」をテクストとして読み進めています。集まりに先立ちまして、当日の聖書箇所の色々な翻訳を集めたものをお送りするようになりました。主に用いているのは新共同訳ですが、他にも、新しい翻訳である聖書協会共同訳、馴染みがおありの方が多くおられる口語訳、そして「学問的」という定評のある岩波訳を取り上げています。

◆ そもそも、このコヘレトの言葉は、比較的に、取り上げられる機会が少ない文書です。ですが、ちょうど今日の箇所のうち、11節は、口語訳ですと「神のなされることは皆その時にかなって美しい」となっています。このフレーズだけでも、耳にしたことがおありなのではないでしょうか。

◆ このコヘレトの言葉、誰が書いたのかは明らかになっていません。そこに書かれているように、ソロモン王でないことは確かなようです。言葉遣いの特徴からして、捕囚以後に成立した文書であると考えられるからです。特徴な内容、統一的な解釈の困難さから、聖書正典としての位置づけについても、かなりの議論が戦わされたのだそうです。結局のところ、著者がソロモンに帰せられているという点が決め手になって、この文書も正典として認められるようになったといいます。

◆ この文書は「すべては空しい」という主張から始まっており、どうにも取っ付きにくい印象を覚えます。今日の箇所はどうでしょうか。二つの対になる様々な時が列挙されています。そこで語られているのは、人間にまつわる一切の事柄は、神様のご計画によって定められているのだ、ということです。生まれることや死ぬことといった、きわめて根本的な事柄についてもそうですし、泣くこと、笑うことといった、わたしたちが日常生活の中で経験する、感情の何気ない動きまで、神様によって定められた時に沿って動かされているものなのだ、ということです。

◆ コヘレトの表現をそのまま借りますと、語り手はソロモンということになりますが、ソロモンは、人間の行いの一切について、それらを吟味し、意味があるかないかを見極めようとしています。それが9節で言われているところの「労苦」の一つです。

◆ ソロモンは、知恵を求め、神を求める営みに励みつつも、やがてはそれに限界があるということを悟ります。神を知り、神のみわざの神秘を知りたいという願いは、永遠を思う心です。それでも、彼自身が述べている通り、神のみわざのすべてを見極めることは許されていないのです。なぜなら、わたしたち人間は、有限な生命体だからです。その点、偉大なソロモン王であろうと、現代に生きるわたしたちであろうと、何の違いもありはしないのです。

◆ わたし自身、自分がこれからどうなるのか?ということが気がかりです。今後、神様は、わたしに向かってどんな風に働きかけてくださるのか、知りたいと思います。さらに言えば、どうか祝福と、幸いとをもたらしてほしい、そんな風に思います。ですが、そうしたことは、わたし自身の目からは見ることができません。時間の流れに沿って、日々の体験を積み重ねて行った先に、ようやく辿り着くことができるにすぎないのです。

◆ ソロモンのなした労苦は知恵の探究でしたが、わたしたちの場合は、また事情が異なって参ります。12節から13節では、少々意外な趣のことが語られております。コヘレトは、人間にとって最も幸福なことが、喜び楽しむこと、言い換えれば、自らの労苦に見合ったパンを得て、それを楽しむことだと主張しているのです。神様によって備えられた時の中で労苦し、それに見合った対価を感謝をもって受けるということ。ここにこそ、人間の幸福があるというわけです。

◆ わたしはこの主張を聞いて、とてもバランス感覚が優れているな、と思いました。永遠を思う心を抱いて、神様のために力強く邁進する生活があります。得てしてそういう場合は、厳格な生活上の規則が生まれがちです。また一方では世俗主義的な生き方があり、そうした人々にとって永遠的なものはあまり意味を持たないでしょう。

◆ コヘレトは、一方では永遠を静かに仰ぎ見ながら、他方では今ここにある地上の命を余すところなく味わうように、と勧めています。繰り返しになりますが、実に優れたバランス感覚と言うことができるのではないでしょうか。

◆ ところでわたしたちは、永遠を、神様を、ただ静かに仰ぎ見ているだけなのでしょうか。わたしたちは、時間というものに、徹頭徹尾縛られてしまっています。実生活上もそうですし、たとえば哲学的にもそうです。わたしたちは、そこから自由になることは基本的にできないと言ってよいでしょう。時間の外側にあるもの、時間を超えたもの、つまり永遠ですが、わたしたちはそれを、なんとなく想像することができるだけなのです。どこか愕然とさせられますが、落ち着いて考えてみるとどうでしょうか。もし、時間が存在しなければ、時間が流れることがなければ、物事に変化は何一つ起きません。それなら、気にかけていたことが好転するとか、その逆もしかりですが、一喜一憂することさえできなくなってしまいます。どんなに辛いことでも、時間を置いて見ますと、いつの間にか、小さな美しい思い出に変わっていたりするものです。そうしたことも、時間があってこその変化ではあるわけです。とりわけ、辛いと思われていた出来事が、実は捉え方次第で、大きな恵みだったということに気づくということがあると思うのです。

◆ わたしたち人間は、どこまでも、時間という次元に縛られていて、そこにおいてのみ、つまりは時間の経過を通してのみ、悲しみや痛み、辛さを、恵み、喜びとして捉え返す可能性を持っています。後になって気づくのです。でも、そうした視点の移動、視点の変換は、時の流れによってだけ、可能なのでしょうか。

◆ 4世紀の神学者アウグスティヌスは、時間について面白いたとえをしています。「あなたの年は『一日』です、またあなたの日は『毎日』ではなくて、『今日』です。…あなたの今日は永遠です」。

◆ わたしたち、命に限りある人間にとって時間の流れというものは、永遠のようにも感じられるほど長いものです。それを細かく刻んで、「今日」とか「明日」と言ったりするのですが、神様の視点から見れば、ほんのひとときのことにすぎないのだ、というたとえなんですね。もちろん、「ひととき」という言葉自身も、たとえにすぎません。

◆ わたしたちの場合はどうでしょうか。先に申し上げましたように、わたしたちは、神様の目をお借りすることで、永遠に触れることのできる可能性があります。主に新型コロナ感染症のために、痛み、悲しみ、無力さ、寂しさ……実に様々な辛い思いが募る日々です。

◆ それでも、時間を超えたところで働かれる神様の視点を借りて、今の状況を見つめ直してみることが、わたしたちには許されています。この「永遠を思う心」を大切に、お互いに励まし合って、みもとに招いていただくまでの道のりを歩んで行きたいと思います。

2021年10月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年10月10日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第21主日 神学校日礼拝
説 教:「遣わされた者として生きる」
           神学生 佐々木玲哉
聖  書:マタイによる福音書22章15~22節
招  詞:イザヤ書55章2~3節
讃 美 歌:28,457(1・4・5節),504(1・4節),91(1節)
礼拝場所:栄光館ファウラーチャペル
○2021年度の神学校日を迎えます。

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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