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2020年7月26日 説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.07.26 使徒言行録27:33-44  「嵐のあとに」  望月修治       
◆ 私たちは今、新型コロナウイルス感染が広がる中で、自分たちが同じ船に乗っていることを強く意識させられています。感染者数が1570万人を超え、死者は64万人を越えている地球という船、私たちが住んでいる国・日本という船、皆が暮らしている街や村という船、病院、学校、企業・会社・店舗という船、同志社教会という船、家族という船、それぞれが役割を担って乗っている船があります。しかし今、自分が乗っている船にいつまでとどまれるのか、仕事の場でも家庭でも疲れや不安、苛立ちや苦悩が解消されずに積み上がっています。この状況にいつまで持ちこたえられるのか、使命感で懸命に船に止まっておられる現実が重さを増していることを思うのです。船のクルーの一人としてどこまで踏みとどまれるのか、時に人に苛立つ自分を責めながら、どうしたらいいのかと巡り続ける思いが和らぐ場所を探しておられます。そのような葛藤が広がっています。私たちはそれぞれ今、船に乗っています。そして同じ船の乗員として、あるいはクルーのひとりとしてどうすべきなのか、そのことを考えさせられています。

◆ 2千年前、冬が到来する季節、パレスチナのカイサリアからローマに向けて地中海に出航した船がありました。紀元58年のことです。この船には一般の乗船者とともに大勢の囚人も乗せられていました。ローマに移送するためです。この囚人たちの中にパウロもいました。パウロは3回にわたって小アジア、さらにヨーロッパ世界を旅し、イエスの福音を伝えた人です。その彼がなぜ囚人としてローマに移送されることになったのか。宣教の旅を打ち上げたパウロは、周囲の心配を退け、彼への反感と憎悪が渦巻くエルサレムに向かいました。宣教の旅で各地の異邦人教会から寄せられた献金をエルサレム教会に届けるためでした。ユダヤ教からキリスト教へ回心したパウロへの憎悪を募らせ、待ち構えていたユダヤ教の人々によって彼は捕らえられ、命は危機に晒されます。しかしローマの市民権を持っていたことで、ローマの駐留軍によって保護されました。エルサレムから、ローマ総督が駐在する地中海沿岸のカイサリアに移送され、2年間の幽閉生活の後、パウロはローマへ囚人として送られることになったのです。

◆ 季節は秋の終わりを迎えていました。通常、冬の11月末から翌年3月はじめまでは、地中海には強い西風が吹き荒れ、航海には危険な季節です。地中海の東半分、小アジアとギリシアでの数々の宣教の旅を経験してきたパウロは、囚人たちを護送していた責任者の百人隊長ユリウスに船出を止めるように提言しました。しかしユリウスは船長や船主の意見に従い、パウロの提言を退けてしまいます。船は錨をあげ、出航します。しかしまもなく大きな嵐にあって、船が舵を失ってしまいました。そして14日間も漂流を続けました。船が沈むのを免れるために積荷や船具も海に投げ捨て船体を軽くしますが「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」と20節に記されています。

◆ その中でただ一人パウロはまだ大丈夫だと人々を励まします。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はいないのです。」 疲れ切ったクルーの中で、スタッフの中で、病院という船、施設という、学校という、家族という船の中で、「大丈夫だ」という言葉を聞いたならば、人は顔を上げるのではないか。ただしパウロは空元気で「大丈夫だ」と言ったのではありません。根拠なくそう言ったのではありません。23節以下でパウロは次のように語っています。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。』 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。」
 
◆ 「大丈夫だ」というべき時があります。「大丈夫だ」と言わなければならない時があります。その時には、根拠の裏打ちが必要です。「大丈夫だ」ということの根拠がなければなりません。ただし根拠は、その人のうちにあるのではありません。外から与えられるのです。人は一人で立ち上がれるのではありません。「助けて下さってありがとうございます」「あなたに励まされました」「支えられました」「生き直そうと思えました」「ひとりではありません」「一緒にいます」 そういう命の言葉が人を支えるのです。「大丈夫だ」という確認を与えてくれるのです。パウロは神という他者から「大丈夫」を船の中で聞いたのです。あなたは一人ではないという語りかけを聞いたのです。

◆ 漂流14日目の真夜中でした。船員たちは、船が、ある島に近づいていることに気づきます。その島はマルタ島でした。「本当に助かるかもしれない」そう思った何人かの船員たちが、助かる望みを確実にするために、自分たちだけ小舟で先抜けしようとしました。苦しい時にはみんなと一緒に歩んでいても、岸が近くに見えると自分だけが助かることを考えてしまう。これは仲間たちを裏切ることです。しかし疲れ切った時、不安に揺れる時、人は誰でもこの岐路に立たされます。

◆ この時パウロがとった行動はとても興味深いものです。みんなに食事を勧めたのです。先抜けしようとした船員も含めてみんなにです。目の前に陸地が見えて来た。誰もが早くあの岸に着きたい、自分は確実に助かりたい、と思いがはやり、浮き足立ちます。大きな危機から脱する時は、実は一番危険な時でもあるのです。14日間もの漂流生活であったけれど命を失わずに助かる、その思いが「一緒に」という連帯感を見失わせようとしています。パウロはその状況を見て、ひと呼吸の間をとろうとします。みんなに食事を勧めたのはそのためでした。35節にこう記されています。「一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。」パウロはひと呼吸の間を置くために、パンと感謝の祈りをささげました。食べることと祈ること。パンを食べることは現実に向かうことです。そして祈りは神に向かうことです。パンだけではなく祈りを、しかし祈りだけでもなくパンを、それがパウロの示した道でした。

◆ 「船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった」と37節にあります。とても興味をひかれる記述です。舵を失った船で嵐の海を14日間も漂った276人。その人たちが今一緒にパンを食べ、命が助かろうしている。それはパウロの信仰、神への信頼によるところが大きいのです。しかし彼はここで何も言わず、キリストのことも語らず、みんなと一緒にただパンを食べています。けれどもこのひと呼吸の間合いは、276人に<仲間として>一緒にいることを思い起こさせるのです。そして「あなたは一人ではない」そのことの意味深さへの気づきを促したのではないか。「苦しんでいたのはわたしだけではなかった」「わたしだけが不安なのではなかった」「自分と同じように追い詰められて苦しんでいる人がいるのだ」・・・自分は一人ぽっちではない、あなたは一人ではない、そのことを知らせ、その意味を示す、そして私たちの身近にあるものがその窓となることを示す、それが宗教の担うべき役割なのだと思っています。

2020年8月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2020年8月9日(日)
聖霊降臨節第11主日
説 教:「わたしが伝えたこと」

牧師 望月修治
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅰ11章23-29節
招 詞:ヨハネによる福音書6章45-48節
讃美歌:25, 79(1番・2番), 132(1番・2番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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