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2022年12月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ルカによる福音書2章1~14節 「今日、イエス来たり給う」 菅根 信彦

★ クリスマスおめでとうございます。さて、言語学者・国語学者の金田一春彦(1913~2004年)は60年余りにわたる日本語研究を通して『心にしまっておきたい日本語』(ベスト新書)というエッセイを残しています。忘れられない名文や俳句・短歌、子どもの歌など70の名文が収録されています。その中で、佐佐木信綱の『新月』にでてくる一つの短歌を紹介していました。「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲」です。そして、このように評しています。「この短歌は、まず『ゆく秋の』といって大きな世界を設定し、『大和の国』といって、少し小さな世界をつくり、『薬師寺の』と言ってさらに小さな対象をしぼっていく。そして、最後に『塔の上なるひとひらの雲』ともっとも小さいもので終わる。」つまり、「空から地上を俯瞰したレンズが小さいものにズームアップしていくように、対象の大きいものから徐々に小さく絞っていく技法がまことに見事である」と語っています。私は「言葉のリズム」という指摘と、「俯瞰したレンズ」のような作者の目が、対象の大きいものから、グゥーと絞り込んでもっとも小さい対象のもので終わるという発想に「はっと」思わされました。一点を凝視していく視点です。なるほど言葉は思想なのだと思いました。

★ ルカ福音書2章1節以降にはイエス誕生の次第が、歴史的記述をもって語られています。「皇帝アウグストスの世界支配」、「シリアの総督の統治下」、さらに、その皇帝の勅令と総督による「住民に登録せよ」との命令。その厳命の中で、出産間近のマリアとヨセフがナザレから、寄り添いながら120キロと言われる距離を旅していくのです。時の権力に翻弄されつつたどりつく「ベツレへムの町」、さらに、その小さな空間としての「馬小屋」あるいは「飼い葉桶」と、大きな世界から、徐々に小さな空間へと凝縮されるように、イエス誕生が描かれていることが分かります。そこには、神が「俯瞰したレンズ」で私たちの世界を見るように、ある一つの固定化した「歴史の枠」が強調されていくのです。

★ ルカ福音書によれば、イエス誕生の物語は抽象的な「昔、ある所に」(Once upon a time)という仕方で語られるのではありません。ある固定した歴史、その時間と空間の枠の中で、イエス誕生があったことを伝えています。事実、ここ数十年の聖書学の研究や、中東史の研究を積み重ねてみると、ルカ福音書の物語が必ずしも荒唐無稽な話しではなく、現実の出来事と重ね合わせて物語が構成されていることが分かってきています。ルカ福音書の著者は、イエス誕生を「歴史の一点」として述べようと試みるのです。具体的な人間の歴史、その生きる場で起こったことを告げるのです。もちろん、馬小屋は寂しく、貧しい小さな空間で起こった故に、人々にはあまり気づかれない仕方でイエスが誕生したことを記すのです。しかし、同時に「イエスという方は、人が人生を歩む途上で、しかも、様々な躓きや破綻を経験するような場面で、全く同じようにして誕生した」と言うことを告げているのです。

★ さらに、このイエス誕生の知らせはその地方で野宿していた羊飼いたちに最初に告げられたことを伝えています。イエス誕生は王の住む神殿や宮殿ではなく、具体的な日常の生活の場がイエスとの出会いの場所であることを告げます。この世の中で現実的な貧しさの中で苦悩を抱える人々が、イエスと最初に出会うと書かれています。しかも、イエス自身は布に包まれて飼い葉桶に寝かされていたとあります。「布」は「おしめ」とも訳することができる言葉です。それは神的な存在ではなく、イエス自身も生身の乳児として生まれ、成長し、誰とでもいつでも出会うことのできる隣人として描かれているのです。

★ 私たちは3年目にわたるコロナ禍の中で三密回避を余儀なくされてきました。この間、人との本当の出会いができなくなりました。確かに、インターネット環境により新しい出会いの可能性が示されました。それでも、オンラインで生身の人間が出会う、語り合うということには、まだまだ技術革新が必要です。その意味でも、このコロナ禍の中で、私たちは「本当にその人を、その人として出会っていたのか」ということが改めて問われています。

★ 元新聞記者で文明批評家である細萱秀太郎は、現代思想家たちの対談として『魂の原型を求めて』(岩波文庫)という著書を出しています。その中には、当時淀川キリスト教病院でホスピス運動の一任者であった柏木哲夫先生との対談がありました。そして、この対談がしばしば中断していったことが述べられていました。その中断する意味を著者はこのように綴っています。「色々な対談の中で、重く、祈るような柏木先生の言葉に、しばしば言葉が行き詰まり、そして、静寂があった。数時間の対談の間に、そのような静寂を破るような、繰り返し電話が対談の場所で激しく鳴る。受話器を握った柏木氏の背中に、その度に厳しい緊張が走るのが私には感じられた。『直ぐに行きますと患者さんに伝えてください』と受話器に向って叫んでいる柏木氏に厳しい表情に自分は心を打たれた。柏木氏は自分に直ぐ戻ってくるからと言いながら、『重傷の患者さんが今直ぐ私に会いたいと言っています。今すぐなのです。タイミングを失することはできません。それっきりになってしまうかもしれないからです。その瞬間がわたしの全てなのです』。彼は繰り返した対談の途中で走りさった」と。柏木先生は「患者さんの呼び出しの声は、私にとってイエスが今この時に、私に呼びかけていらっしゃる声だと聞こえる」とも言われたそうです。

★ イエスが、羊飼いのように、今、今日、この場所で、この時を外してはもはや聞くことのできないという仕方で、私たちは天使の言葉を聞いているでしょうか。確かに、私たちは、それぞれ神学や思想をもって、キリスト教やイエスについて思索し、思いめぐらしますが、しかし、「今日」、「この時」という形で具体的にイエスに出会っているのだろうかと考えさせられました。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(14節)と、「今日」、ダビデの町の馬小屋の飼い葉桶で生まれたという「今日」を強調しています。今、この時を外してイエスと出会うことはないとの迫りをもって救い主の誕生を私たちに告げています。イエスに出会うのは「今」、「この時」、「この場所」で出会うということです。このような切迫感をもって神の呼びかけの声を聞いていくことを促しています。その時こそ永遠性が宿る祝福に満ちた出会いの場となるのです。

2022年12月18日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ルカによる福音書1章26〜38節 「恐れることはない」 大垣 友行

★ アドベントも第4週を迎えました。いよいよ、次週はクリスマスです。聖書は、クリスマスの出来事をわたしたちに語り伝えていますが、最初に書かれた福音書とされるマルコ福音書には、イエスの誕生物語が記されていません。すでに成長したイエスが、ガリラヤのナザレから来たということが書かれているだけです。他方で、マタイ、ルカ、そしてヨハネは、それぞれの仕方で、イエスの誕生について扱っています。ヨハネは独自の関心から物語を描き出していますが、マタイとルカは、誕生の出来事にスポットライトを当てています。

★ ルカの場合は、先週のザカリアのエピソード、洗礼者ヨハネの誕生物語と対をなすものとして位置付けられています。構造的には、イエスの誕生の告知、マリアの賛歌、その母マリアと、洗礼者ヨハネの母エリサベトの出会いを間に挟み込んで、イエスの誕生の出来事を語った物語が、一連のエピソードをなしており、福音書の冒頭には幼少期の姿までが描かれています。

★ ヨハネの誕生物語と、イエスの誕生物語との間には、多くの共通点が見られます。天使によるお告げがあること、お告げを受ける者が恐れを感じること、恐れることはないという言葉、いわゆる受胎告知、そして命名です。反対に、相違点もあります。ヨハネが生まれるのは祭司の夫妻の間のことで、彼らの社会的な地位は低くなかった一方で、イエスが生まれたのは、マリア自身が語っているところによると、「身分の低い」、「はしため」でした。また、告知を受けたザカリアは「恐怖を感じた」と明記されていますが、マリアは「戸惑い」、「考え込んだ」とあります。ザカリアは、結局のところ天使ガブリエルの言葉を素直に受け入れられず、しるしを求め、誕生・命名まで口がきけなくされてしまいます。他方でマリアは、天使の告げる言葉を受け入れていきます。

★ ルカがこのような形で、二つのエピソードを並べているのは、イエスとヨハネを対比し、イエスがヨハネにまさる存在であることを暗示しようとしている、と言われています。告知の時点で、マリアが従順に神様の言葉を受け入れていくのに対し、ザカリアは疑いを捨てることが出来ませんでした。その後、マリアとエリサベト、二人が告知を受けてから出会う場面では、「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」と記されています。このような形で、イエスとヨハネの位置付けを、その誕生の時点にまでさかのぼって定めようとする意図を見て取ることができます。

★ これらの物語の中には、「恐れ」ということが、いずれの場合にも含まれています。喜ばしい出来事について告げられているにもかかわらずです。どうしてなのか、少し考えてみますと、わたしたちの場合でも、ある程度予想のつく範囲内のことであれば、思いがけない小さなよい知らせを、サプライズとして、多少の驚きはありながらも、素直に受け取ることができるのではないでしょうか。ですけれども、たとえば、宝くじで一億円が当たったから取りに来なさい、などと言われますと、これは詐欺かもしれません。たとえ本当のことであったとしても、疑いを差し挟まずにはいられませんよね。証拠を見せてください、ということになります。もともと望んでいながらも、あまりにもその望みが大きすぎる時は、それがかなうということになると、どこか怖気づいてしまうものです。ザカリアやマリアの場合も、恐らくそうだったでしょう。

★ だからこそ、天使ガブリエルは、二人に「恐れるな」、「恐れることはない」と語りかけました。実は、この言葉は、旧約聖書の中で、神様の救いのはじまりを告げる言葉でもあるのです。調べてみますと、イザヤやエレミヤなどの預言者たちが、困難の只中にあるイスラエルの人々に対して、やがて神様の救いがやって来るから、だから、「恐れることはない」よと語りかけています。ルカもまた、このような語りのパターンを用いることによって、救いの出来事が、それも決定的な救いの出来事がはじまっていくということを伝えようとしているのです。

★ それでも、たとえこのようなことが分かっていたとしても、素直に受け止めることができないのが、人の常というものでしょう。どうしても、証拠がほしくなるものです。ザカリアとマリアを分けた、この素直さ、従順さは、どこから来ているのでしょうか。申命記の10章12節を見ますと、「神が求められること」という小見出しが付けられています。それはちょうど、律法の再授与の場面にあたります。モーセは、神様が求められていることとして、次のように語っています。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」。

★ ここでモーセは、やはり畏れることも必要であると述べています。あらゆる意味で、恐れは人間の基本的な感情ですから、これを抑えることはできません。だからこそ、そんな恐れの気持ちに対して、「恐れるな」という語り掛けがなされるわけです。でも、それだけではいけない、ということではないでしょうか。モーセは、恐れることだけではなくて、神様を愛すること、そして従っていくことをも勧めているからです。このことは、少し言い換えれば、神様の愛に対して、愛をもって応えていくこと、とも言えるのではないでしょうか。神様の愛が出発点なのだとしたら、その神様を愛する気持ちをもっていれば、それが素直な態度や言葉につながっていきます。もし、神様の愛を受けるのだとしても、そこに愛をもって応える気持ちがなく、心が驚きや恐怖に支配されていたのだとしたら、柔らかな態度や言葉は生じてきません。恐れのみならず、愛することもまた、同時に必要なものであるはずなのです。

★ クリスマスが間近に迫っているこの時も、わたしたちもまた、わたしたち自身の様々な恐れや悩み、不安にさいなまれて、神様の愛を愛として素直に受け止めることができず、ただおびえてしまうところがあります。ですが、そんな時だからこそ、恐れのために小さくなってしまっている自分のことを見つめ直して、「恐れるな」というメッセージをしっかりと受け止め、いつも想像を超える形で働く、神様が示してくださる愛を見過ごすことなく、応えていこうとする心を大切にしていきたいと思います。

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