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2016年8月28日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨 2016.08.28 ヨハネの手紙第一 5:10-21 「わたしたち、神に属する者」(髙田)               

◆ 明日は2年に一度の同志社神学協議会が栄光館で開催される。神学協議会というのは、主に同志社大学神学部出身の牧師達からなる同業者組合である、全国同信伝道会(同信会)が開催する定例の行事である。最近の4回は牧師だけでなく、信徒の方にも参加を呼び掛けて来ている。同志社がそこに立つと自覚する会衆主義においては、信徒の働きというのがとても重要だからである。

◆ 今年の神学協議会は特別なものとなっている。開会礼拝に先立って、同信会の第1回の代議員会がもたれるからである。同信会は、教師を求める教会に、教会を求める教師を紹介するという働きを続けきた。しかし、人事というデリケートな問題を扱う機関であるわりに、どういう組織なのかよく分からないとの批判を受けてきた。そうした批判に応じて、また、現今の日本基督教団全体の情勢の中で、信徒に同信会の存在を知っていただき、一緒に問題に取り組んでもらいたいという願いから、先輩の牧師方は大きな組織改革に乗り出し、組織の透明性を高めようとしてきた。その結果、様々な検討を経て、代議員制が導入され、明日の代議員会ではじめて、選挙によって幾分透明な形で同信会の委員が選ばれる。これによって、同信会が歴史的な一歩を踏み出すことができるよう祈っている。

◆ 同信会に関心を向け、この組織が存在感を発揮せねばならないと言うときに、否が応でも現今の日本基督教団の状況が目に入ってくる。同信会はこれまでに、会衆主義教会のアイデンティティーを確認する作業を行ってきた。なぜそのような作業が必要になったかといえば、これに対立する立場が、10年程前から日本基督教団の主導権を握るようになったからである。

◆ 日本基督教団は1941年に国家の事情や、その他様々な思惑と、聖霊の導きによって、それまで日本に存在していた様々なプロテスタントのキリスト教教派が合同して成立した。旧教派に関して言えば、改革長老派系の教会と、組合系あるいは会衆派系の教会が、今でも対立関係、あるいは緊張関係にありながら、一つの日本基督教団を構成している。信仰告白や正統主義信仰、教会間の一致を重んじる方と、どちらかといえば社会活動や各個教会の自由を重んじる方の対立である。こうした対立は、新島襄と植村正久との対立に見られるように、そもそもの日本のプロテスタントキリスト教の歴史の最初から存在していたものでもある。

◆ このような対立を前に、なにか絶望的に気持ちになり、教団組織などには目をつむって、わたしたちの教会がしっかりしていればそれでいいではないかという気持ちになるかもしれない。しかし、重要なのは権力争いではなく、そうした対立する立場同士の研鑽が、よりよく作用しあって日本基督教団を活気づけ、その緊張関係と研鑽との中で豊かで健全な信仰を生み出すことである。そして何よりも教会に活気が与えられて、未だキリスト教に出会っていない人々に対して、魅力的に見える信徒を、牧師を、そして教会を生み出していくということである。

◆ 具体的な学閥や教会の対立に見えるような問題は、掘り下げてみればキリスト者の信仰が、そこにおいても向き合わざるを得ないような、本質的で内的な対立の現れでもある。今日のヨハネの手紙にもまた、当時の教会における異端との対立の影が色濃く残されている。「死に至る罪があります」(16節)と語られていたが、これは異端者の罪を言うものである。また、「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」(19節)とも述べられている。

◆ ヨハネの手紙の著者や成立には諸説あるが、ヨハネによる福音書とも繋がりを持つこの手紙を生み出した共同体は、そのギリシャ語能力の稚拙さからして、様々な迫害や対立を経験して、パレスチナから小アジアの地方に逃れてきたものだと考えられる。一方でユダヤ教社会の中での、あるいはローマ帝国による迫害を経験し、教会の結束が強く求められるような状況にあって、それだけ一層教会を悩ませたのは、教会内部から現れてくる分派的思想、異端的思想であった。

◆ そういう状況にあって、この手紙は慣れないギリシャ語を用いてまでして、そうした分派や異端に対して激しい非難の言葉を投げかけている。2章18節からは反キリスト、アンチクリストという言葉が登場し、この群れを去って行った人々を非難している。それらは「もともと仲間ではなかった」と言われ、「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者」だと、また「御父と御子を認めない者、これこそ反キリスト」だとまで言われている。そしてそうしたもの達が「あなたがたを惑わせようとし」ており、4章1節では「偽預言者が大勢世に出てきている」とも言われている。

◆ 元来、対立するような立場や教えの危険性を説く場合、そこで求められるのは、そうした立場や教えそのもの、また自分が信奉する教えとの違い、そしてその間違いを丁寧に明らかにして、それを聞く者自身が問題を適切に把握できるようにすることのはずである。しかし、この手紙はそういう作業を一切省略して、ただ対立者を反キリストと定めて一方的に非難の言葉を投げかけている。

◆ このように対立者を鋭く意識する中で、「わたしたち」という表現が問題になってくる。誰が「わたしたち」なのか。ヨハネの手紙においては自分たちの教会に属して、異端者に対抗する人々が「わたしたち」で、その「わたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」と言う。その「わたしたちは知って」いる。「すべて神から生まれた者は」、つまりわたしたちは、「罪を犯しません」と。そして「わたしたちは神に属するもの」で「真実な方の内にいる」と言う。

◆ これに対して、イエスが教えて下さった主の祈りにおいて、わたしたちとは誰であっただろうか。「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい。わたしたちの負い目を許して下さい。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪から救いだして下さい」。ここには、善きサマリア人のたとえのように、誰が仲間か、隣人かと考えるのではなく、隣人になっていくという姿勢も重なってくる。

◆ こうしたイエスの教えと、ヨハネの手紙に示されたような初期教会の姿勢という二つの方向性も、信仰において本質的な内的な対立の軸を示しているかもしれない。不思議な導きによって一つの正典として編纂された新約聖書は、それ自体、そうした対立の問題に向き合い続けるようにと、キリスト者を促し続けているとも考えられる。

◆ わたしたちは世にあって、教会においてイエスの語った神の国を先取りして生きようとする。しかし世に立つ教会は世の理に巻き込まれており、教会をなすのも有限で罪深い人間であるから、すべてが上手くいくわけではない。それでも与えられた状況の中で、何とかもがいて教会を存続させようとした人間の努力と信仰を、このヨハネの手紙は伝えている。

◆ 日本基督教団における対立もまた、世の理にあって、それでもなお人の思惑を遙かに超えて力強く進む神の国の進展に対して、欠くべからざるものであると信じたい。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」。わたしたち、イエス・キリストを、神の御心を示して下った神の御子であると信じるものは、与えられた状況の中でそれぞれにできることを為しながら、その御心である地上での神の国の進展に、教会の前進に、願いを託して歩むものでありたい。

2016年9月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年9月11日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第18主日
説 教:「私は傷をもっている」
牧師 望月修治
聖 書:エフェソの信徒への手紙
3章14~21節
招 詞:ヨハネによる福音書10章27-28節
交読詩編:103;14-22
讃美歌:26、208 、492、399、91(1番)

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