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2022年9月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

コリントの信徒への手紙Ⅱ 9:6-15 「葛藤の先にある道」 大垣 友行

 困窮しているエルサレム教会の信徒たちのために、パウロは献金を呼び掛けました。募金活動がなかなか進まないことを心配して、彼はこの手紙を書き、コリント教会の人々に対して重い腰を上げるように促しています。エルサレムのユダヤ人たちを中心とした教会と、ギリシャ地域の異邦人を中心とした教会とは、律法の捉え方を巡って対立することがありましたので、なかなか献金に向かう動きも取りづらかったものと考えられます。そんなコリント教会の人々に対して、豊かに種を蒔く人は、さらに豊かな刈り入れの時を迎えるというたとえ話を用いて、パウロは献金を勧めていきます。

 またパウロは、人々の自発性を重視しています。7節に、「不承不承ではなく」とありますが、直訳しますと「悲しみから」となり、すぐ後の「喜んで」という表現と対になっていることが分かります。また、そうした施しが、神様の恵みに基づくものであることも指摘します。聖書学者の佐竹明さんの指摘によれば、パウロは献金を勧める際に、様々な言葉を用いているということです。献金を意味する言葉として、10種類を超える言葉が用いられているとのことです。例えば「奉仕」を意味するディアコニアやレイトゥルギア、「果実」を意味するカルポスという言葉を比喩的に用いたり、「交わり」を意味するコイノニア、「募金」を意味するロゲイアなどが使われたりしています。そして重要なのが、「恵み」を意味するカリスという表現です。9章では8節、そして14節に出てきています。

 8節を見ますと、「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」とあります。また14節には、「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」と記されています。パウロはこのように、献金に際して神の恵みに意識を向けるように促しています。そうした視点を持たない場合、自分たちと立場を異にする人々への支援は、どこかよそよそしげな、熱意のこもらないものになりがちです。ですが、自分たちのみならず、他の人々もそこにつながろうとしている神様からの恵みを受けて生きているという意識があれば、献金の捉え方も違ってくるでしょう。12節にありますように、献金活動も単なる献金であることを超えて、神様に対する感謝という性格を持ちはじめます。いつも何らかの不足を感じ、不満の内に過ごしていては、そういう感謝の気持ちは芽生えにくいものですし、支援する心もなかなか起こってきません。ですが、日々生かされている中で、自分なりの視点から、たとえ小さなものであっても、神様の恵みを指折り数え上げるならば、同信の友、兄弟姉妹への愛情が、少しずつ湧き起こってくるのではないでしょうか。

 そして、そうした感謝は、パウロたちの働きを通じて引き出されていくと述べています。ずいぶんと気負い込んだというか、パウロの自負を感じさせる表現ですが、今の世の中のように、電子的にあっという間に送金できる時代のことでもなく、献金を運ぶのも命がけです。同じ第2コリントの11章26節から、自分が旅の中で経験した様々な困難について、パウロは語っています。曰く、「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」。豊かな献金も、運び手を得ることで、ようやっとその実りが現実のものとなる、という面もあったわけで、確かにある種の厚かましさを感じさせるような表現をしながらも、パウロ自身の働きが、困難を顧みずに、神様の導きと守りの中でなされたものであることをも感じさせずにはいないと思います。困窮し、弱体化しているエルサレム教会のことを念頭に置けば、11章29節の、「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」という言葉が、頼もしさをもって響いては来ないでしょうか。

 パウロのこの熱い思いに裏打ちされた自負について考えてみますと、彼は「誇り」という言葉を何度か用いています。聖書で語られている「誇り」は、「自分で自分のことを誇る」か、「自分以外の誰かのことを誇る」か、あるいは、「自分以外の誰かのことを誇りに思うことで、かえって誇りをもって生きることができるようになる」ということです。聖書的には最初の誇りは否定的に捉えられています。パウロの誇りは2番目・3番目の誇りということになります。もちろん、わたしたちは、自らの能力を頼りに生きている部分がありますので、これを全く否定することは難しいかもしれません。ですが、ぎりぎりのところで、そうした思いを手放していくことも必要です。

 かつて、夏目漱石は、明治という激動の時代にあって、父祖伝来の日本的な生き方と、新しく流入してきた西洋文明・文化との板挟みになって苦しんだと聞きます。昔ながらの生き方にも、流行の思想にもどっぷりと浸りこむことができず、後ろ盾をもつことができずに、最終的な結論として、自分自身を最も尊いものとし、「自己本位」の立場を貫こうとします。ですが、もとより、そうした自己本位を徹底することは至難の業です。人は何らかの権威によって、自らの立場を安定的なものにすることができるという部分があります。彼の生き方は、「自分で自分を誇る」という生き方の極北に位置するものですが、そうした試みはついに挫折せざるを得ないのかもしれません。

 改めて、パウロの誇りは、恵み深い神様を後ろ盾として、その神様を讃える誇りに他なりません。また、そうした歩みの中で、共に支え合うことで、かえって自信を持ちながら、歩んでいくことができるのだと、パウロはこの手紙を通して示してくれています。もはやパウロの時代のような困難はないにしても、誰かを支える営みには、何らかの難しさがあり、葛藤を覚えることもしばしばです。ですが、隣人のため、神様のために生きることの誇りを損なわないように、少しずつ歩みを進めて行くものでありたいと願います。

2022年10月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年10月9日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第19主日・神学校日
於:静和館4階ホール
説 教:「苦難の共同体」
             神学生 藤田和也
聖 書:コロサイの信徒への手紙1章21〜29節
招 詞:ダニエル書10章19節
讃美歌:24,300(1・2・3節),361(1・2・3節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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