SSブログ

2020年8月30日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020. 8. 30 ヨハネによる福音書8:1-11「うしろ姿のイエス」     望月修治    

◆「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」この描写は深い印象を私たちに与え続けてきました。身をかがめたイエス、道端にうずくまり、こちらに背を向けてまま一言も発しないイエス。その背中と無言の後ろ姿が、鮮やかな映像となって浮かび上がります。

◆ 一人の女が、イエスのそばに引きすえられました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 朝まだ早いエルサレムの神殿の境内での出来事です。人々のこの問いに対して、イエスは身をかがめて、地面に何かを書いているだけだったと福音書記者は記しています。

◆ 人々は姦通の現場で捕らえられた女をどう処遇したらいいのか真剣に困って、イエスなら良い答えを出してくれるはずだと期待して質問しに来たのではありません。イエスを試して訴える口実を得るためであったと、記されています。律法学者やファリサイ派といった当時のユダヤの体制側の人々は、自分たちにとって次第に目障りな存在になりつつあったイエスを、何とかして支配者であったローマに訴えて亡き者にしようと、その機会をねらっていました。暗殺という手だてがなかったわけではありません。しかし何としてもイエスが正式に議会で裁かれ、ローマ総督から政治犯として死刑を宣告されることで、大衆にイエスの教えや行動はやはり間違っていたのだということを示したいという意図があったのです。そこで彼らは逃げ場のない仕掛けを潜ませた問いをイエスに投げかけました。「あなたはどうお考えになりますか。」

◆「石を投げよ」ともしイエスが答えた場合には、それはユダヤの律法にかなうことにはなります。しかし当時、死刑はローマの法律によって決定されることになっていましたから、ローマの権威を無視する危険人物としてローマ総督に訴えることが出来ます。またもし「許してやるべきだ」と答えたならば、イエスは律法をないがしろにするいい加減な人間だという追い込み方をすることができる。いずれに転んでもイエスを窮地に追い込み、あわよくば命まで奪うこともできるという、逃げ場のない罠を仕掛けたはずでした。

◆ 人々の問いかけに対して、イエスは身をかがめたまま指で地面に何かを書き続けていました。「答えに窮してしまったのだ」・・・・人々はおそらくそう見たはずです。さらに追い打ちをかけようとしつこく問い続けます。しかし思いもかけない言葉がイエスから投げかけられます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」それだけ言うとイエスはまた身をかがめて地面に書き続けたというのです。

◆ 人が勝ち誇るとき、あるいは自分の正当性を声高に主張するとき、自分の内にあるかげりを忘れます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げつけるがよい」・・・・これは勝ちを誇る人間の思い上がりを問う言葉となりました。自分の影の面には気づかず、他者の影を見てこれに石を投げつける姿勢が浮き彫りにされます。この女は姦通した、自分はそんなことはしていない。律法には姦通は石打ちの刑にあたると定められている。だからこの女は処刑されて当然だ。そういう人々の思いに向けてイエスは問いかけます。確かにあなたは、姦通はしていないかも知れない。しかし全く何の落ち度も、何のかげりも、あなたの今までの人生にはなかったのか、そうイエスは問うたのです。

◆ 姦通した女、現代風に言えば不倫です。そこに人はある固定したイメージを抱きはしないでしょうか。そのイメージは人によって異なるとは思いますが、少なくともプラスのイメージではないはずです。ただしそれは、姦通して捕まえられた女を表からみたイメージです。では彼女の背中に回ってみたらどうでしょうか。むろん姦通それ自体が問題でなくなるということではありませんけれども、もっと違ったものがそこに見えてくるのです。

◆ 古代オリエント世界では女性の地位は極めて低いものでした。旧約聖書の申命記24:1にこう記されています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」・・・・この掟は男があまりに軽々しく妻を追い出したので、離婚の時くらいはちゃんと理由を示すべきだということを指示したものです。この掟の中で「何か恥ずべきこと」とありますが、これには例えば料理が上手くないとか、用事に出かけていった途中で誰かと話し込んで油を売っていたといったことも含まれていたと言います。そんなことが離婚の正当な理由になるとまじめに考えていたユダヤ教の一派もあったということですから、イエスの時代のユダヤ社会で、女性がいかに差別され抑圧されていたかを伺い知ることが出来ます。またユダヤ教の教師は女性に律法を教えませんでした。あるいは、ユダヤ教の安息日の集会には10人以上の出席者がなければ成立しないことになっていましたが、これも成年男子が10人以上出席していることが必要であり、女性や子どもが何人いてもそれだけでは集会は成立しませんでした。それから女性は12歳から12歳半くらいになると、父親が決めた相手と婚約し、結婚することになっており、12歳半以下の娘には結婚相手を断る権利も認められてはいませんでした。

◆ 今日の箇所に登場する女性も、そのような有無を言わせない形で、父親が決めた相手と結婚させられたのかも知れません。そして夫から愛情らしい愛情を受けたことのない女性の前に、本当にその人のことを人として大切にしてくれる人が現れたなら、たとえ姦通の現場で捕らえられれば石打ちの刑に処せられることは分かっていても、それでもその人の胸の中に飛び込んで行きたいと願う、それ程に、哀しくまた切ない時があるいはあったのではないか。

◆ イエスはこの女が姦通したことを全面的にいいと言っているのではありません。それは別れ際に「これからは、もう罪を犯してはならない」と諭していることからも分かります。ただイエスは、そのような境遇にしか生きてこられなかった一人の女の哀しみを思いやることもなく、ただ掟はこうだ、ルールはこうだといって切り捨て裁こうとする律法学者やファリサイ派の人々のような生き方に対して、自ら命をかけて反対したのです。

◆ 手に手に石を握っていた人々は、ふたたび向こうを向いて、身をかがめ地面に何かを書き続けるイエスの背中になにを見たのでしょうか。後ろ姿のイエスは「野の花のこころ」であると、ある人が書いていました。野の花の一つであるアネモネは、その名の由来が「風の娘」の意味で、風が吹くときに初めて花を開くと言われています。

◆ 「風は思いにままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへいくかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:8)イエスはそう語り、神の働きを風に喩えました。神からの風、聖霊とも聖書が呼ぶ神の働き、神から吹き寄せる風に共鳴し、響き合う存在、それがイエスという人なのであり、身をかがめたイエスの背中から、あのアダムに神が吹き込んだ命の息が吹き抜ける音を人々は聞いたのではないか、そしてその風が「あなたに石を投げる資格があるのか」と人々に、また私たちに問いかけるのではないか、そう思いました。

2020年9月13日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2020年9月13日(日)
聖霊降臨節第16主日
説 教:「命の座標」
    牧師 望月修治

聖 書:ヨハネの手紙Ⅰ 5章13〜21節
招 詞:詩編65篇10-11節
讃美歌:24,409(1番・2番),572(1番・2番),91(1番)


(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。