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2020年10月25日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.10.25 マタイによる福音書10:26-33  「屋根の上から語れ」 望月修治

◆ イエスは弟子たちを派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(16節)と語りました。強烈な譬えです。進んで出掛けたいとは到底思えない務めです。 矢内原忠雄が東大の学長時代に、卒業式でこの言葉を引用して卒業生に学長として告辞を語りました。1949年3月28日、旧制度での最後の年となった時の卒業式でのことです。その中で矢内原はこう述べています。「諸君を社会に送り出すのは、ある意味において、狼の群れの中に羊を入れるような感じがする。」当時、東大の学長の卒業式や入学式における告辞は、必ず新聞に取り上げられました。この時の矢内原の告辞は決して評判が良くはありませんでした。今ならSNS上でバッシングの嵐を受けたかも知れません。日頃は矢内原に同情的な新聞も「いったい我々を狼扱いするとは何事か」と書き立てたと言います。卒業生が社会に出ていく時に、社会は狼呼ばわりするような東大の学長とは何者かという論調になったのです。この時の告辞は、のちに刊行された矢内原全集に収録されました。先ほどの言葉に続いて矢内原はこう語ったと記録されています。「便宜主義的なこの世の風潮によって、諸君の理想の食われてしまうことなく、真理のために勇敢に闘う精神を持って社会に出て行ってもらいたい。これをもって、卒業を祝するはなむけの言葉とする。」 16節の「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」というイエスの言葉を弟子たちへの「はなむけの言葉」だとした矢内原の解釈は今日の聖書箇所を読み解くヒントだと思いました。

◆ イエスの言葉には覆われ、隠されている真理がある。奥義がある。大切なメッセージがある。それは屋根の上で言い広めるべき価値あるものだということです。羊は狼とは真逆の存在のあり方を表しています。狼は言い換えれば英雄とか、勢いのよい者とか、勇敢な者とか、権力を持つ者ということです。狼に勝つには、自分が相手より強い狼になるのが最善の道かも知れません。しかしイエスは弟子たちを「あなたがたは羊だ」というのです。狼の中に派遣するのであれば、羊ではなく、もっと立派な狼に仕立てて、「さあ行ってらっしゃい」と送り出してくださってもよさそうなものです。しかし羊のままでいいのだというのです。羊として派遣するのだというのです。その理由は、イエスが示した道、神の道、イエスが語った福音は、羊としてしかその真理を、その中身を表しようがなかったからだではないのでしょうか。バプテスマのヨハネはイエスを「神の子羊」と呼びました。イエスが人とどのように出会い、どのように関わったのか、そのイエスの救い主としての働きのあり方を、福音書記者はバプテスマのヨハネに「神の子羊」と語らせることによって言い表しました。イエス自身が羊だったのです。

◆ 羊としてしか表せないこと、狼の対極に位置する存在としての羊が表すものとは何か。パウロの言葉がそれを明らかにします。コリントの信徒への手紙Ⅱ 12:9-10に記されています。「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
「弱い時にこそ強い」このことから思い至る言葉があります。ローマ教皇フランシスコが語った言葉です。彼は昨年11月に来日しました。その時教皇が幾度となく語ったのは「弱い人」と共ある社会です。そして今年4月19日、バチカンの近くで行われたミサの中で、教皇は次のような言葉を語りました。「わたしたちを今後ひどくおそう危険があるのは、無関心な利己主義というウイルスです。自分さえよければ生活は上向く、自分さえうまくいけば、すべてそれでよい、という考えが広がることです。こうしたことから始まり、最後には、人を選別し、貧しい人を排除し、発展という名の祭壇の上で取り残された人々を犠牲にするに至ります。」 わたしたちは、自分を守ろうとするあまり、世界に大きな分断をつくっている、というのです。教皇に就任した2013年から、ずっと変わらず、こうした言葉を世界に送り続けています。彼は「貧しい人、弱い人を支えましょう」ということはあまり言いません。もう少し過激なことを語ります。彼は「弱い人」「貧しい人」「捨てられた人」に学ぶべきだ、というのです。わたしたちは自分から見て「弱い人」「貧しい人」を助けたいと思います。大事なことです。しかし「助ける」という視点から見た時、わたしたちは自分が何か「高い」場所にいることを忘れがちです。カトリック司祭の本田哲郎さんは「低みに立って見直す」ことが「悔い改める」ことだと語っています。低いところに立って人々に学ぶということを始めたときに、初めて見えてくる何かがある、ということです。

◆ フランシスコ教皇は同じミサで、次のようにも語っています。「このパンデミックは、苦しむ人々の間には違いも境界線もないことを、わたしたちに思い出させました。わたしたちは皆、弱く、平等で、かけがえのない存在です。今起きていることは、わたしたちの内面を揺さぶります。今こそ、不平等をなくし、全人類の健康を損ねる原因である不正義を正す時です。」 しかし世界は、平等でも、均衡でもなく、ある大きな不調和の中にあることを、現実として経験しています。今なすべきことは、まったく新しい何かを作ることではなく、これまで、熟慮することなく、簡単に手放してきたもの、「現実は・・・」という言葉に振り回されて諦めて傍に置いてしまってきたものを、もう1度取り戻していくことなのかも知れません。ある人はそれを「敬意」だと語り、ある人は「愛」だと語り、またある人は「正義」だと語ります。アプローチの仕方は異なりますが、そこに共通しているのは「弱さ」に可能性を見出すということです。

◆ 「弱さ」に可能性を見出す、その根拠は神が命あるものの弱さを支えてくださるからです。私たちはそのことを、誰かと出会い、繋がって生きることによって体験するのです。だから旧約聖書の創世記の物語は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と神が語り、一人の人間だけではなく、もう一人の人間を造ったと語るのです。つながり合う関係を持って生きる存在として人を造ったのだと物語るのです。それは人間が神と出会う場所、神の働きを体験する場が造り出され、拓かれたことを告げる物語です。イエスはその神の働きを29節でこう語っています。「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。」 1アサリオン、それは当時のユダヤの最小通貨です。二羽の雀が1アサリオンで売られているというのですから、雀は二羽でなければ売れない、1羽では最小の値段でも売れない、それほど小さく、ささやかなものも神は支え育むのだとイエスは語っています。そして神への信頼をもつことを促します。

◆ 「わたしは自分の弱さを誇る」とパウロは語りました。これは「助ける」だけではなく「助けられる」ことを学んだ者の言葉です。彼はキリスト者たちを脅迫し、殺そうと意気込んでダマスコに向かっていました。その時に復活のイエスが顕現し、「なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞き、目が見えなくなってしまいました。自分で先に進めなくなったパウロは、人々に手を引かれてダマスコの町に連れて行ってもらうという体験を味わいます。力を失い弱くなって「助けられた」のです。「助ける」側にいると思っていた自分が、「助けられる」側に置かれる体験でした。「助けられる」ことを学ぶ体験でした。そして気づかされるのです。「弱い人」は、助けられるだけの人ではないということ。「いのち」の尊厳を照らし出す役割をもっている存在なのだということです。

2020年11月8日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2020年11月8日(日)
降誕前第7主日
説 教:「争いを起こさず」
    牧師 望月修治

聖 書:創世記13章1〜18節
招 詞:ガラテヤの信徒への手紙3章13〜14節
讃美歌:25,402(1番・2番),463(1番・2番),91(1番)


(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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