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2016年7月31日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.7.31  ヨハネの手紙Ⅰ 5:1-5「愛を語る手紙」  望月修治           

◆ 私は5年前から同志社大学で毎週1コマ、授業を担当させていただいています。「キリスト教と人間」という科目名です。毎回授業ではコメントカードを資料と共に配布して、授業の終わりにカードにその日の授業内容についての感想や質問を学生の皆さんに書いていただいています。この春学期のコメントカードの中にこんな質問が書かれていました。「聖書にはいろいろ物語が書かれていますが、内容が多岐にわたっているので、何が言いたいのか戸惑ってしまいます。聖書が一番伝えようとしているのは何なのですか。」この学生の方が抱いた問いは、遠い昔、ユダヤの人々がイエスに投げかけた問いかけと同じです。当時のユダヤの人々にとって、律法の中で、何が最も重要なのかということが、大きな、そして真剣な問いでした。それは福音書に記されているイエスと律法学者の間で交わされた問答からも明らかになります。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と律法学者から問われ、それに答える形で最も重要な掟が明らかにされています。これを私たちに引き寄せて言うならば「聖書は要するに何を言いたいのですか」「聖書が一番伝えようとしているのは何ですか」ということです。「掟の中で、どれが第一でしょうか」、それは私たちにとっても知っておきたい大切なことです。

◆ イエスは、あらゆる掟のうちから、最も大切なものとして、まず第一に、心と精神と思いと力を尽くして神を愛することという旧約聖書の申命記6:5に記されている掟、そして第二に、隣人を自分のように愛するというレビ記19:18に記されている掟、この二つを取り出しました。ここでイエスが、第一の掟と第二の掟というように二つを分けて明確に語ったということに注意を向けておきたいと思います。第一の掟、第二の掟という分け方は、この二つの掟の重要度の序列を示しているのではありません。神を愛するということは、心の中で神を愛しています、信じますということでよいのではなく、隣人を愛するという具体的な生き方をすることにおいてはじめて現実となるのです。イエスは聖書の中心はここにあるのだと語りました。

◆ このことが今日の箇所では「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」という表現で語られています。神を愛する者は,神から生まれた者、すなわち隣人をも愛するのだというのです。その場合「隣人を自分のように愛しなさい」とイエスは促しています。ここで、私たちの歩みは止まります。「隣人を自分のように愛する」と求められて、私たちは立ち止まってしまうのです。いったいどのように生きたら.このイエスの言う生き方を生きていると言えるのか。そのことが具体的な焦点を結びそうで結ばないもどかしさを感じてしまうからです。なぜなら自分のように隣人を愛するなどということがはたして出来るのかと考え込まされるからです。

◆ 今日の箇所の3節に「神を愛するとは,神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」とあります。神の掟とは最初に申し上げましたように、集約すれば「神を愛すること」そして「隣人を自分のように愛すること」この二つです。それが難しいものではないというのです。このことを解き明かす手がかりのひとつは、現存する最初の日本語聖書であるギュツラフ訳の聖書にあります。オランダ伝道協会の宣教師であったカール・ギュツラフによって1835年から1836年にかけて日本語に翻訳された最初の聖書は「ヨハネ伝」すなわちヨハネによる福音書と、「ヨハネ書簡」でした。今日読んでいますヨハネの手紙Ⅰもギュツラフによって最初に訳された書簡の一つです。今日の聖書の箇所との関連で大事なことは、ギュツラフ訳聖書において、今日の聖書では「愛」あるいは「愛する」と訳されている言葉の原語は、いずれも「アガペー」です。それは徹底して相手を支え,相手に仕え,相手と共にある生き方、決して裏切らず,相手がどのような状況にあろうとも共にいる、いうならばそのような生き方を表すのが「アガペー」という言葉で表現される愛です。この言葉を訳すとき,ギュツラフは「御大切」という日本語をあてました。この「御大切」という翻訳は聖書に語られている「愛」」あるいは「愛する」ということの本質を見事に写し取っています。「隣人を愛する」とは「隣人を大切にする」ことなのです。ここでポイントとなるのは、大切にするということの中身です。聖書において隣人を大切にするというのは,隣人に対してどのような関心の持ち方をし,何を大事にすべきだというのでしょうか。

◆ 何よりの手がかりはイエスの生き方です。今日の箇所にも1節に「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」とあります。聖書においてイエスがメシアであると言われる理由は何か.それはイエスの生き方に表されています。イエスは当時のユダヤ社会で罪人と呼ばれた人たちのもとに一緒にいました。そしてそんな人たちと一緒にいたら汚れると言われていた人たちと席を同じくし,食事を共にしました。長く病気で苦しんでいる人、手や足の不自由さを持っている人、心に傷みをもって苦しんでいる人、いずれも当時、神の救いから外れてしまったと見なされていた人々のもとにイエスは身を置き、そして「あなたは神から招かれていますよ」
と伝えました。そこに「大切にする」ことの中身が見えてきます。

◆ イエスが語る「ご大切」「大切にする」とは、人が自分であれ、他の誰かであれ、その人がここにいるという、ただそれだけの理由で誰かが何の条件もつけることなく関心をもってくれ、世話をしてくれたということを経験することです。赤ちゃんのとき、人はそこにいるということだけで、だれかが何の条件もつけることなく関心をもってくれて、世話をしてくれる。誰もがそのような世話のされかたをした経験があるはずです。評論家の大宅映子さんが関西のある私立大学での講演で「<死ぬと分かっていて、なぜ人間は生きていけるのか>、そういう根源的な問いに答えを出していくのが、文学部というところだ」と語られました。大変興味深い定義です。いずれ必ず死ぬことが分かっているのに、それでもわたしたちは死なないでいる。あるいは死なないでいられる。その理由は何なのでしょうか。

◆ 生きる理由がどうしても見当たらなくなったとき、自分が生きるにあたいする者であることを自分に納得させるのは、なかなか難しいことです。人が「死ぬと分かっていても死なないでいる」のは、だれもが赤ちゃんのときに、何の条件もつけずにこの子がここにいるという、ただそれだけの理由で関心をもってもらい、世話をしてもらえるという経験をするからです。わたしを<わたし>としてそのまま肯定してくれる他者がいること、他者によって無条件に肯定してもらえるという経験が、いのちを支えるのだと思います。イエスが語る「ご大切」「大切にする」とは、そのことなのです。自分という存在が根源において肯定されているという想いが生きるということの底にあることが大事なのです。イエスはその経験を作り出し、味わうことができるように、人に出会い、人に寄り添い、「あなたは神様から招かれていますよ」と語りかけ続けた人です。それが「イエスがメシアであることを信じる人は皆、神から生まれた者です」ということの中身なのだと思うのです。

2016年8月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年8月14日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第14主日
説 教:「縛る言葉」
牧師 望月修治
聖 書:ローマの信徒への手紙
7章1~6節
招 詞:出エジプト記34章10節
交読詩編:87
讃美歌:28、127、342、522、91(1番)

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