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2022年3月20日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書8章27〜33節 「思い」 大垣友行

◆ 今日は同志社大学の卒業式ですが、他にも幼稚園、小学校、中学校、高等学校と、様々な学校・学年の人々が、この困難な状況の中で、新しい経験の時を迎えて行かれます。そして何より、望月先生・恵子さん、佐々木神学生が、いよいよ旅立ちの時をお迎えになります。旅立たれる人々の胸には、喜びと不安と、様々な思いが絡み合っていることでしょう。この時を共に喜ぶものでありたいと思います。

◆ ところで、旅立つこととは、何を意味しているでしょうか。わたし自身の経験を踏まえて申し上げれば、それはやはり、誰かとの出会いを通して、与えられ、経験されるものだと思っています。閉ざされた、自分の思いが破られること。成長とも言い換えられる、そうした経験が大切なのだと思います。

◆ 今日の聖書の物語も、そうしたことを教えてくれているのではないでしょうか。イエスが受難の予告をする場面です。イエスと弟子たち一行は、ガリラヤ周辺、そして湖の対岸にある異邦人の地域を経巡って、癒やしの奇跡を行ってきました。そのような旅の途中で、ふとイエスは、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」という問いを投げかけます。弟子たちは、旅の中で、実に様々な噂を耳にして来たことでしょう。ある者は「洗礼者ヨハネだ」とする答えを、またある者は「エリヤだ」と、「預言者の一人だ」と口々に答えます。人々が口にする噂を受け止めて、再びイエスは弟子たちに問います。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。

◆ その問いに、ペトロが答えます。「あなたは、メシアです」。新共同訳で、ここで「メシア」と訳されている言葉は、原文では「クリストス」、すなわちキリストです。もともとのヘブライ語の意味は、「油を注がれた者」です。「クリストス」もまた、ギリシャ語で「油を注ぐ」を意味する「クリオー」という動詞から出来た、「油を注がれた者」という名詞ですから、きちんと対応しているわけです。ここでの「メシア」、「クリストス」は、一種の称号、肩書きです。イスラエルの祭司、預言者、そして王は、それぞれに「油を注がれた者」でした。詩編ではイスラエルの民全体、イザヤ書では、捕囚の民を解放したペルシャ王キュロスも、「メシア」と呼ばれております。このように、「メシア」というのは、非常に大きな権威を持つ者のこととして理解されていたわけです。

◆ ここでペトロは、旧約聖書の「メシア」理解を持ち出して来て、イエスに向かって、あなたこそ、そのような「メシア」に他ならないと断言したわけです。こうしたペトロの回答は、極めて優等生的なものであったと言えるでしょう。実際のところ、ローマの支配に喘いでいた当時の人々は、そのような政治的メシアを待望していて、その点では弟子たちにしても変わりなかったからです。きっと彼は自信満々に、あなたこそ、数々の奇跡を行い、人々の期待を一身に背負っておられるメシアに他ならない、と言い放ったことでしょう。

◆ ところが、ペトロの答えを受けて、イエスはそのことを誰にも話すなと命じられました。あまつさえ、続いてイエスが語り出したことは、ペトロの理解や期待に、全くそぐわないものでした。曰く、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」ると。そして、「三日の後に復活する」のだと。わたしたちは、これが世を贖うために絶対に必要な受難の予告であると知っているのですが、きっとペトロは戸惑い、面食らったことでしょう。政治的メシアを見いだしたという思いを、当の本人が全く裏切るものであったからです。限りない権威を持つ「メシア」が、ユダヤ人たちの救世主が、なぜ同胞から迫害を受け、殺されねばならないのか。この衝撃的な未来を公言して憚らないイエスに、ペトロはたまりかねて、彼を諌めようといたします。

◆ しかしペトロは、イエスによって一蹴されます。「サタン」とまで呼ばれ、叱りつけられます。ここでわたしたちは、人々に取り憑いた悪霊たちが、イエスが誰であるかを見抜いたこと、そして癒やされた人々に、そのことを誰にも話すなとイエスが命じられたことを思い出します。ここでペトロは、人々に取り憑き、苦しませた悪霊と同じ扱いを受けているわけですが、それは彼が「神のことを思わず、人間のことを思っている」からだといいます。すでに申し上げましたように、わたしたちは、ここで言われている「神のこと」に関する知識があります。ですから、ペトロの「人間のこと」に関する思いが、いかにズレているもの、的外れなものであるかを理解することができます。ですが当のペトロは、イエスに叱られて、大きなショックを受けて、二の句が継げなかったことと思います。

◆ しかし実際に、一切のことが、イエスの語った通りになります。ペトロはそのことを身をもって経験します。イエスにどこまでも付き従うことを誓い、自分の弱さのために自分の言葉を裏切り、イエスを裏切りさえしながらです。ですが結局、彼はイエスから逃れることが出来ずに、戻って参ります。その時のペトロは、もはや自分の思いでもってイエスをはかり、諌めた時のペトロではありません。イエスの受難、そして復活を目の当たりにしたことで、その思いが破られたからです。思いが破られるのは、誰かと関わる時、向き合う時と申し上げました。その誰かは、特定の個人かもしれませんし、聖書というテクストかもしれません。ペトロのように、思いが破られるような体験を通して、人はまた別の自分になって行くのだと思います。

◆ ただ、わたしたちが「人間のこと」を思う心、それを完全に取り除くことは難しいと思います。わたしたちを取り巻く様々な困難から自由にされたいという願い、それもまた、わたしたちの本心から出てくる、本当に痛切な祈りだからです。出血が止まらない病を癒してほしいと願った女性のこと、中風の人、ヤイロの娘、こうした人々も皆、そうした祈りを抱いていたのです。ただそこには、イエスと何の偽りも、虚飾もなく向き合うという純粋な気持ちがあったように思います。政治的な関係、一対多数の関係、多数と多数の関係ではなく、一対一の関係。お互いに一人の人として、イエスに出会い、全幅の信頼を寄せるということ。それをイエスは信仰と呼んでいます。そこは、「人間の思い」と「神の思い」が融け合っているところなのかもしれません。

◆ 「人間のことを思い」、そしてまた「神の思い」に立ち返ろうとすること。誰かのことを指弾するよりも、まず自分が、そういう道に就かなければならないと思います。でも、その道をどこまでも、安心して歩いていることはできません。いつか必ず、どんな思いも破られるからです。いくら「人間のこと」を脱しようと思っても、わたしたちは依然として人間であり続けるのですから、どこかで必ず限界がやって来ずにはいないでしょう。でもそこには、いつも新しくされたわたしたちがいます。裏切られ、バラバラに打ち砕かれた自分の思いのかけらを捨て去って、神様の御心にかなうものとして、創り変えられたわたしたちがいます。思いを新しくされ、皆がお互いを大切に、思いやって生きることの出来る世界が実現するには、まだまだ時間がかかりそうです。ですが、そのことを希望として、この辛い時代を一歩一歩共に歩んで、生きていきたいと思います。

2022年4月3日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年4月3日(日)午前10時30分
復活前第2主日・受難節第5主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「僕となった主」
             牧師 菅根信彦
聖 書:マルコによる福音書10章32-45節
招 詞:イザヤ書55章6-7b節
讃美歌:24,294(1・2節),521(3),481(1・4節),524(1・2節),91(1)
◎転入会式・聖餐式を行います。

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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