SSブログ

2018年6月24日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.6.24 使徒言行録13:13-25 「神と民の旅路」       望月修治      

◆ 使徒言行録13章以下には、パウロを中心とする初期キリスト教会による小アジア、ギリシア、ローマなど異邦人世界での宣教活動の様子、特にパウロが宣教旅行を行って各地に教会を設立して行ったことが記されています。異邦人世界への宣教活動の中心になったのは、シリアのアンティオキア教会です。アンティオキアは当時、約100万の人口を抱えるマンモス都市でした。この大都市に教会が設立されたことが初期キリスト教の歴史において占める位置と意義は計り知れないほど大きいものでした。アンティオキア教会は最初の異邦人教会であり、何よりもパウロを異邦人伝道に送り出す拠点となったからです。実にさまざまな人種、多様な政治的・文化的な背景をもつ人たちがアンティオキア教会を構成していました。そこには多様性があり、みんなが平均化するという形で一つにまとまることはなかったと思います。

◆ アンティオキアの教会は、実に危なっかしい教会でした。しかしだからこそ、この教会に集っていた人たちは、一緒歩んで行くためにどうしたら良いかを懸命に考えました。些細なことですぐに対立が表に出てくるような状態で、下手をすればすぐ分裂してしまいかねない教会であったからこそ、そうならないようにはどうすべきかを真剣に探りました。お互いの違いをバラバラだとマイナスと捉えるのではなく、違いは違いのまま残しながら、共に生きる道を見出す、それが活路となる、そう考えました。そのためにアンティオキアの教会の人たちがしたことがありました。それは教会の中に対立や混乱が生じた時に、イエスの言葉、教え、イエスの行いに立ち戻るということです。一緒に同じものを見上げることで、一つになるというあり方です。

◆ 紀元48年、イエスの死後18年ほどたったこの年、アンティオキア教会は異邦人伝道の務めを担う人物としてパウロとバルナバを選び出し、彼らを宣教の旅へと送り出しました。パウロとバルナバの最初の宣教の旅の物語が13章に記されています。パウロたちの一行は、地中海に船出して、バルナバの故郷であるキプロス島を経て、ベルゲという小アジアにあるパンフィリア州の港に上陸しました。そこからピシディア州のアンティオキアを訪れました。同じアンティオキアという名前ですが、アンティオキア教会があるシリアのアンティオキアからは直線でも500キロ以上の距離があります。パウロとバルナバが上陸した港ベルゲからは内陸部に160キロあまり入った位置になるのですが、途中には標高3,737メートルのタウルス山があり、険しい危険な山道を通らなければなりません。なぜ彼らはこの道を選んだのか明確にはわかりません。

◆ 理由はともかく、ピシディア州のアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、「安息日に会堂に入って席に着いた」と14節に記されています。当時のユダヤ教の会堂での礼拝は、ユダヤ国内のみならず、ユダヤ以外の異教の地であっても、シェマ イスラエル(聞け、イスラエルよ)で始まる祈祷、律法と預言書の朗読、そして奨励が行われました。各会堂には、会堂長のもとに、有給で雇用された役人が配属されていて、儀式の際には全体を通じて司会者としての務めを担いました。とくに奨励は、会堂長が、あらかじめ選んだユダヤ人に依頼していたと言われます。パウロとバルナバが「何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と求められたのは、その礼拝での奨励です。

◆ パウロは会堂長に促されて立ち上がり、語り始めました。これは彼が宣教旅行を開始して初めて語った説教です。この説教はイスラエルの民が歩んできた歴史をたどり直すことから始まりました。その昔、イスラエルの祖先たちがモーセに率いられてエジプトを脱出し、40年間荒れ野の旅をしたこと。紀元前900年代にサウル、そしてダビデが王となり、特にダビデの時代に国の基礎が固まり、繁栄の時代を迎えたこと、ダビデの子孫から神がイスラエルの人々のもとに遣わした救い主がイエスであること、そして、人々に悔い改めの洗礼を受けよと語ったバプテスマのヨハネが、イエスのことを「その方はわたしの後に来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない」と語ったこと、それらを簡潔に語りました。バプテスマのヨハネは、自分と救い主であるイエスとの違いは、イエスの履物のひもを解いてお脱がせする値打ちもないほど大きいのだと語りました。このことはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、いずれの福音書にも記されています。パウロが宣教旅行の最初の説教でそこのことを語ったということは、彼もまた同様の認識をイエスに対してもっていたということだと思います。

◆ イエスとの違いは、履物の紐を解いてお脱がせする値打ちもないほどだというのですが、福音書の記者たち,そしてパウロはこのバプテスマのヨハネの言葉に何を見出したのだろうか。そして私たちはこの言葉をどのように解釈し、受け止められるのだろうかと考えました。その違いは段違いなのだ、いやそもそも比較できるレベルの違いではないという、これはしかし畏れ多くてとても近寄れないということではないはずです。距離的なことでいえば、むしろまことに近い存在であったイエスの生き方、命の用い方、命の活かし方、そこに自分たちとは質の異なる違いがあるということではないかと思うのです。

◆ 滋賀県能登川にある止揚学園の園長である福井生さんが、雑誌「いのちのことば」に連載されていた文章が「あたたかい生命と温かいいのち」という本になってつい先月出版されました。その巻頭言に関西学院大学人間福祉学部教授の藤井美和さんが、学生たちと止揚学園を訪ねた時のことを書いておられます。止揚学園には、最重度と呼ばれる知能に重い障がいをもつ仲間たちが生活しています。学生たちはその仲間たちと食前の祈りを共にし、そば打ち師匠のお蕎麦に舌鼓をうち、一緒に語り、歌い、楽しいひと時を味わいました。そして帰りには、止揚学園の仲間全員が外に出て、寒い中、一生懸命手を振って「また来てね」と見えなくなるまで見送ってくれた。その帰り道で学生たちが涙を流しながらこう言いました。「言葉にならない」「ヤバイところに来てしまった」。この日止揚学園を訪れた学生たちの心が揺さぶられたのは、「私たちがただただ受け入れられ、生き生きといのちを生きる人たちに出会ったから」だと藤井さんは書いておられます。「言葉にできない」「ヤバイところ」と学生たちが涙を流しながら語った言葉は、効率性や合理性を重視する社会の価値観、自分たちの価値観が覆されたこと、そしていのちのあたたかさに満たされた場に身を置くことで与えられた大きな安らぎから生まれた言葉でした。福井生さんは生まれた時から止揚学園の仲間たちと過ごして来ました。生さんにとって、障害をもつ人たちは、理解しなければならない対象でもなければ、助けてあげなければならない存在でもありませんでした。学園の仲間に世話され、抱っこされ、兄弟のように過ごして来ました。見えないもの、いのちといのちの重なりを、心と体と魂で感じながら育った人です。しかし、大人になるにつれ、社会が止揚学園のもつ価値観を認めていないことを実感していく中で、生さんは自身の生き方を問われることになりました。だからこそ生さんは、止揚学園という場で仲間の皆さんと一緒に生きながら、本当の意味での出会いは、どちらか一方が支える側、支えられる側になることはないということ、愛され、赦され、支え合い、祈りあう仲間であることだ、そのことを静かに訴えておられます。

◆ 止揚学園を訪れた、いや止揚学園に受け入れられた学生たちが心を揺さぶられて語った「言葉にならない」「ヤバイところ」ということは、「この方の履物をお脱がせする値打ちも自分にはない」とバプテスマのヨハネに語らせたイエスの生き方につながっていると私は思っています。ヨハネはイエスが出会った人々を受け留めて共に生きていく、その度合いの深さに圧倒されたのです。その思いを「この方の履物をお脱がせする値打ちも自分にはない」と語ったのではないでしょうか。

2018年7月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年7月8日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第8主日
説 教:「神の家での暮らし方」
牧師 望月修治
聖 書:テモテへの手紙Ⅰ
3章14〜16節
招 詞:マルコによる福音書8章23-24節
交読詩編:119;129-136
讃美歌:24,59,413,192,91(1番)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。