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2018年10月28日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.10.28 ヨブ記38:1-18 「同じ土俵に上がれるのか」    望月修治      

◆ 自由学園の創立者羽仁もと子が、人の世の悲しみについて記した一文があります。「人の世には実に多くの悲しみがあります。病める人の悲しみ、貧しき人の悲しみ、親を失い子に別れる悲しみ、孤独のなげき、もとより数えあげる訳にはゆきません。・・・不幸なことの充満しているこの世の中、それが悲劇です。それが即ち何よりも、人の世の悲しみです。それだのに世の中の多くの人々は、ほとんどそのことを気にしていないのは事実のように思われます。人の世はこんなものだと怪しみもせずに、涙の谷の中に棲んでいる私たち、それがまた何より深い人の世の悲しみです。」(羽仁もと子著作集第16巻「みどりごの心」)羽仁もと子は次女の涼子、孫の立子をいずれも幼少期に亡くしています。母として、祖母として肉親との辛い別離を経験した思いがこの一文に記されています。

◆ なぜ人はこの世で苦しみ、悩まなければならないのか。しかもなぜ、何の理由もなく悲惨なことが身に起こるのか。そのような人生に、はたして意味などあるのか。この世界そのものが不条理にできていて、正義なる神などいないのではないのか。これは人が生きているところにはどこにもある問題です。ヨブ記はまさにこの問題を正面から取り上げ、解答を求めます。この物語の主人公ヨブは「無垢な正しい人」で幸福な人生を送っていたと紹介されます。「無垢な」(タム)というのは、「完全な」「非の打ちどころのない」「潔白な」という意味です。彼は七人の息子と三人の娘に恵まれていました。また多くの財産を所有する大富豪でした。ヨブとその家族は豊かで平和な人生を楽しんでいました。加えて彼は宗教面、信仰面でも極めて敬虔でした。

◆ 物語の場面はここから突然、天上の法廷に移り、サタンと神が語り合う場面が動き出します。神は敬虔なヨブを「わたしの僕」と呼んで最大限に評価します。これに対してサタンはこう言うのです。ヨブは何の下心もなく、理由もなく、根拠もなく神を畏れ敬っているのだろうか、何か自分のためになるという下心があるからではないのか。事実、神様、あなたはヨブにとって大いに利益になることをなさっているではありませんか。あなたがヨブを加護することをお止めになったら、ヨブの信仰など霧のように消し飛んでしまうはずだと言います。加えてサタンは、ヨブの持ち物を撃つようにと神をけしかけます。こうしてサタンは、ヨブの財産と息子、娘らを奪う許しを得て、法廷を引き下がりました。

◆ 天上の法廷でのやりとりの後、物語はさらに展開します。神の許可を得たサタンが動き出し、ヨブの生活は激流に飲み込まれるように暗転します。まず牛、雌ろばが奪われ、牧童たちが斬り殺されます。次に羊と羊飼い、さらにらくだとその牧童も奪われ殺されてしまいました。そして最後には息子と娘たちが突然吹いてきた大風によって倒れた家の下敷きになって皆亡くなってしまいます。災難はそれにとどまらず、ヨブ自身にも及びました。体全身がひどい皮膚病に侵され、耐え難い苦痛が身体を襲います。そのヨブに妻はこう言います。「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」全財産と息子、娘たち、自分の健康まで奪われ、妻からも理解されないという、ヨブの孤独が浮き彫りにされます。それでも彼はこの不幸も神から受けたものだというのです。

◆ 呻くような苦痛が続く中でしかしヨブは揺れます。そしてついに呪いを口にします。「わたしの生まれた日は消えうせよ、男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。」(3:3-4)「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。」(3:11)死ぬことさえ許されないとヨブは嘆きます。死にたくても死ねないジレンマにさいなまれるのです。

◆ そのヨブを、三人の友人たち、テマン人エリファズ、シュア人ビルダト、ナアマ人ツォファルが訪ねてきます。ヨブ記は4章からこの三人の友人たちとヨブとの議論が長々と続きます。友人たちは因果応報の原則を持ち出して、人間の苦しみにはそれなりの原因がその人間にあるはずだということ、苦しむヨブに、その非はヨブにあるから自分の非を認めるべきだと繰り返すのです。これに対してヨブはいかなる非もないのに苦しんでいるのだと、あくまで自分の潔白を主張し続けます。

◆ 人がなぜ苦しむのか、その答えを知るための道はどこにあるのでしょうか。ヨブ記は答えてくれるのでしょうか。妻にも見放され、三人の友人からもお前の行いの悪さが原因なのだから早く懺悔すべきだと責められ、ヨブは自己弁護する言葉を次第に失っていきました。残された唯一の道が「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の中に立たれるであろう」ということでした。「塵の中に立つ」とはヨブが死んで塵となったとしても、そこに神は贖いの働きを示してくださるはずだという意味です。
けれども神は沈黙したままでした。懸命に、必死に求めているのに応答がない、人はそのような状況に置かれたままでは希望を持ち続けることはできません。ヨブが消すまいと思っていた火は、神の沈黙が続く中で消えてしまいました。ヨブ記という物語は、主人公が苦難の極みに身を置いたけれどそれでも希望を失いませんでした、神への信頼を失いませんでしたという物語ではありません。「わたしは神を仰ぎ見る」ということをヨブは諦めてしまったのです。

◆ ところが神は、ヨブが諦めてしまったことを思いがけない仕方で叶えます。そのことを記したのが38章です。1節に、神は嵐、これは砂嵐です、砂嵐の中からヨブに応答したと記されています。「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」と神はヨブに迫ります。「腰に帯をせよ」とは「土俵に上がって来い」ということです。神はヨブと同じ土俵に立つというのです。そこで神が語ったのは、すべてのものを創造したのは「わたし」(神)であること、そして自然がいかに不思議さに満ちているかということでした。この神の語りかけは41章の終わりまで続きます。聖書の中で最も長い神の言葉です。

◆ 長々と神は語るのですが、しかしなぜこのような苦しみに遭うのかとヨブが問い続けて来たことに神は直接答えないままです。わたしだったら「神さまそれはないでしょう」と言いたくなります。しかしヨブは42章で「今、この目であなたを仰ぎ見ます」と答えているのです。このときヨブは神を見ることができたのでしょうか。そうではないはずです。神はすさまじい砂嵐の中からヨブに答えているのですから、ヨブは目を開けて神を見ることはできなかったはずです。でもヨブは「今、この目であなたを仰ぎ見る」と断言するのです。どういうことなのか。それはヨブが神を見たのではなく、神がヨブを見たからではないでしょうか。神に知られている、そのことを納得したからではないでしょうか。

◆ 19章でヨブは「わたしは神を仰ぎ見るであろう」と語っていました。しかしそれを完全に諦めてしまいました。それなのに「今、この目であなたを仰ぎ見ます」と言い切るのは、ヨブが味わって来た苦しみの理由を見通せたからではありません。納得できたからではありません。納得できたからではないけれど、しかしその苦しみは知られていた、神が知っていて下さった、そのことをヨブは知ったからだと思うのです。神の思いを知りつくすことは出来ない。なぜ苦しむのかその理由を納得し尽くすこともできない。しかしその苦しみは神に知られている、神が見て下さっている、その気づきがヨブにもたらされた。だから彼は「今、この目であなたを仰ぎ見ます」と語ったのだと思うのです。これは見えたという確認報告ではなく、見えないけれど信じるというヨブの信仰告白です。

2018年11月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年11月11日(日)午前10時30分
降誕前第7主日
説 教:「あなたは確かに笑った」
牧師 望月修治
聖 書:創世記18章 1〜15節
招 詞:ルカによる福音書3章7〜8節
交読詩編:105;1-11
讃美歌:24,54,392,458,91(1番)
◎礼拝場所は静和館4階ホールです。

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