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2015年4月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2015年4月12日(日)午前10時30分
復活節第2主日
説 教:「心が燃えた道」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
24章13~35節(新約p.160)
招 詞:列王記下7章1-12節
讃美歌:27、208、326、333、91(1番)
交読詩編:16(p.16上段)

2015年3月29日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2015.3.29    ルカによる福音書22:39-53 「やめなさい」             

◆ 受難週を迎えました。イエスが十字架に架けられるまでの1週間に起こった出来事を、福音書の記者たちは丹念に書き記しています。弟子たちと食事を済ませたあと、イエスは「そこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれた」とあります。弟子たちを一緒にともなってイエスはオリーブ山に登りました。その弟子たちにイエスは「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と2度念を押すように語りました。2度目は「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」とあり、「起きて」いう言葉が新しく付け加えられています。ここで「起きる」というのは「立ち上がる」という意味です。

◆ 「誘惑に陥らないように立って祈る」この言葉からイメージするのはどのような姿でしょうか。熱心に祈る、一心不乱に祈る、一日何回も祈る、長い時間ひたすら祈る、そのような姿でしょうか。あるいは揺らがずに祈ること、祈り続ける強さを持つこと、そのようなあり方に憧れる自分でしょうか。自分の中の熱心さ、気持ちの高ぶり、祈る回数の多さや長さ、朝早く起きて祈る、その時間の早さに意味を見出し、熱心さを評価するといったことが私たちの中にはあるように思います。

◆ イエスも確かに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と2度重ねて語っています。しかし40節の「祈りなさい」、そして46節の「祈りなさい」、この二つの「祈りなさい」の間に語られているオリーブ山で祈るイエスは、私たちが抱きがちな「祈ること」のイメージをひっくり返します。受難を前にして、オリーブ山で祈っていたとき、イエスは二つの思いの間で揺らいでいました。「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」とイエスは祈っています。出来ることなら十字架にかかりたくはない。苦しみたくはない、それがイエスの正直な気持ちだったことをこの祈りは示します。しかしもう一つの思いもありました。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という、神に委ねていこうとする祈りです。この二つの思いの間で揺れ動き、その葛藤の重さの故に「イエスは苦しみもだえ、汗が血の滴るように地面に落ちた」と描写されています。「汗が血の滴るように地面に落ちた」という描写は凄まじいたとえです。イエス自身が二つの態度の中で揺れ動いたのです。揺れ動くことは不信仰だ、信仰者は堅く立って揺れ動かないことこそ大事なのだと言われたりします。けれどそれは私たちの現実からはまことに遠いのだと誰もが思います。人は揺れ動くのです。

◆ イエスも揺れながら祈っているのです。求められているのはこの揺れを無くすことではなく、揺れ動く私たちに一人一人に向かって呼びかけ、そのような私たちを生かし、支え抜くために力を用いて下さる神に自分を委ねるというあり方を捨てないことです。私たちの人生から神の働く場をなくしてしまわないことです。

◆ 「神の子なら」「メシアなら」何でもできるだろう。その力を見せてやったらいいではないか。そうすれば皆が納得するではないか。このような類の力の示し方をすることに私達はうなずきます。自分にはこれだけの力がある、実力がある、それを押し出し、見せることでごもっともですと相手を納得させる。あるいは誰かから納得させられるという構図は私達の社会に当たり前のように存在しています。けれどもイエスはそのような力の表し方を退けてきました。47節以下の出来事もそのひとつです。イエスを捕らえようとして群衆と共にやってきた大祭司の手下の一人に、誰かが打ちかかって、その右の耳を切り落としたというのです。そのときにイエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言って、その耳に触れていやされたと語られています。行き詰まったとき、追いつめられたとき、人は外から助けがとどくことへの信頼を失います。自分で何とかしなければと思いつめ、相手に打ちかかるのです。そのような振る舞い方を「やめなさい」とイエスは言うのです。このことが示すのは何か。自分を誇るために、何でも出来る力を決して使わないということです。人を生かすために、人を支えるためにこそ神はその力をどのようにでも使うのです。4章にはイエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けたという出来事が語られています。石をパンに変える、高いところから飛び降りて天使が支えるところを見せる、十字架から降りてみせる、それは何れも悪魔がささやきかけた状況においては、人を生かし支えるのではなく、自分の力を見せつけ自分のために誇るという力の使い方になってしまうことでした。だからイエスはこのような誘惑をことごとく退けたのです。石をパンに変えなかったし、高いところから飛び降りなかったし、十字架から降りることもしませんでした。

◆ ではイエスはどんな時も力を表に出すことはなかったのかと言えばそうではないことを私達は知っています。多くの力ある業をイエスは行いました。それはしかし何れも誰かを生かすため、誰かを支えるためでした。神から罰を受けている、神から裁かれているからだというレッテルを張られ諦めの中に生きていた人をいやし、あなたも神に招かれているのだということを示したのです。そのために力を使い、力を見せたのです。しかしそういうイエスの力の凄さに人々の関心が向いていくとき、イエスは退きました。湖の向こう岸へ、人里離れた場所へ、あるいは山へ、イエスは退きました。自分を誇るために力を示せという要求に対しては、イエスはその力を用いることはしませんでした。また人を生かすために必要なら、場合によっては力を引っ込めることもありました。十字架の出来事はそのような力の使い方の極限を示すものです。

◆ しかしながら人はそれをメシアのあり方として認められないと拒否し、神が働いておられるとは認められないと不平を言い続けてきました。ルカはその姿を23章で、十字架にかけられていた二人の犯罪人とイエスとの対話という形で描いています。この二人の犯罪人とイエスとの対話はルカだけに特徴的に語られている出来事です。一人はあざけりのことばを吐く者であり、もう一人はイエスを救い主として頼る者です。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と一人は言い、もう一人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言う。これは極端な二つの態度を対比させることで、イエスのメッセージを際だたせ、私たちにどちらの立場をとるのかを問いかけていくのです。

◆ この二人の態度は私たちの中に同居しています。例えば苦況に陥ったとき、自分はいったいどちらの態度をとるでしょうか。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」という非難の言葉を投げつけることがないでしょうか。イエスは「自分を救ってみろ」という誘惑を退け十字架にかかりました。激しい揺れの中でイエスはこの道を歩んだことを福音書は伝えています。私たちは揺らぎます。しかし少なくとも行き詰まったとき、困難に向き合ったとき、それを助け支えるものは外から私たちの人生に示されて行く、注がれてくる、訪れてくる、その神の働きに対する信頼を打ち捨ててしまうことはすまい。少なくとも神がわたしたちの人生に働いて下さる場所を全く閉じてしまうことはすまい。私たちはイエスのようには生きられませんが、せめて神の働きを受けとめて生きる生き方を忘れないで、信仰の道を歩みたいと思いました。

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