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2016年4月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年4月17日(日)午前10時30分
復活節第4主日
説 教:「それぞれの務め」
  牧師 髙田太
聖 書:ヨハネによる福音書
21章15~25節
招 詞:ヨハネの黙示録3章20~22節
交読詩編:118;1-12
讃美歌:28、17、403、459、67、91(1番)
※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。
洗礼式があります。

2016年4月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2-16.4.3 ヨハネによる福音書20:19-31 「その時一緒にいなかった彼に」  望月修治 

◆ キリスト教信仰の中心にはイエス・キリストの復活という出来事があり、それを覚えて行われるのがイースター礼拝であり、また毎週日曜日に守られる礼拝です。けれども、この「復活」ほどわかりにくい教義はないと感じている人も少なくありません。イエスの弟子たちやイエスの身近にいた人たちでさえ、「イエスは復活した」と告げられたとき、誰もが「震え上がり、恐ろしくて、正気を失った」と聖書は証言するのです。それぞれ違った立場、違った生き方をしてきた人たちですが、イエスの復活という出来事が起こった時点では、みなが同じスタート地点に立っていたのです。ポイントは、この後どのように対応したかということにあります。

◆ 「週の初めの日」この日は弟子たちやイエスにしたがって行動を共にしてきた人たちにとって、理解し難い驚きに激しく揺さぶられる一日となったことだろうと思います。ヨハネ福音書20章19節以下には、その揺れ動いた一日の夕方から晩にかけて起こった出来事が語られています。その夜、復活したイエスはユダヤ人たちを恐れて鍵を閉め家の中に閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と語りかけたというのです。神は共にいて下さる、こんなに安心・平安なことがあろうかというのが「平和」という言葉の意味です。「あなたがたに平和があるように」この言葉は弟子たちにとって予測できなかった言葉です。弟子たちからすれば、もしイエスが来て彼らに語りかける言葉があるとすれば、「なぜわたしを見捨て、見殺しにしたのか」という言葉以外には考えられなかったはずです。イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちに、なお「神が共にいて下さる」とイエスは宣言しました。弟子たちを裁く神としてではなく、罪を赦す神として共にいてくださることをイエスは告げたのです。そして22節です。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とイエスは語り、弟子たちを聖霊すなわち神の働きが支えること、そして罪の赦しを宣言する権威を与えると語ります。ヨハネ福音書では、この権威は弟子たち個人にではなく「弟子たち」すなわち教会に託されているのだと記します。プロテスタントの教会理解、万人祭司という考え方はここに重要な根拠をもっています。

◆ これは重要な場面です。しかしその時、そこにいなかった弟子が一人いました。トマスです。だから彼はイエスが現れたという仲間の証言を聞いても、ただちにそれを信じられませんでした。彼はこう言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。イエスの復活への疑いをあらわにしたのです。
それにしても「あの方の手の釘跡にこの指を入れる。脇腹にこの手を入れる」とは実に凄まじい表現です。壁や鴨居の残った釘跡ではありません。生身の人間の手にあいた釘跡です。そこに指を入れる。土壁にあいた穴ではなく人間の脇腹の穴、槍で突かれてあいた穴には指ではなく手を入れる。そうしなければわたしは信じないとトマスは言ったというのです。ヨハネ福音書に記されたこの場面を、私たちは復活の物語の印象深い場面として何度も思い巡らし、何度も語ってきました。しかしながら、人間の手に釘跡があいている、脇腹に槍で刺された穴の跡があいているということの凄まじさをどれほど受けとめてきただろうかと思うのです。生きている人間の手に釘が打ち込まれる、脇腹に槍が突き立てられる、むろん麻酔などなしにです。それがどんなに凄惨なことか、そのことを思うことがはたしでどれだけあったでしょうか。

◆ 福音書はイエスが裁判にかけられ十字架につけられていく時の状況を「イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」(マルコ15:15)「兵士たちは何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけた」(マルコ15:19)「兵士たちは平手で打った」(ヨハネ19:3)と短く記しているのだけです。しかしこの短い言葉に表現されている状況の凄惨さは、私たちの想像を超えます。イエスが十字架に掛けられて処刑されたという事実を、私たちはどうしても軽く考えてしまっています。軽く見ることが出来るということは、自分の責任の外のことだとしか思っていないからです。トマスという人物もそうだったのではないかと思えるのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言い方は少し距離を置いた物言いであり、どこか第三者的な視線を含んでいるように思えるからです。「キリスト殺しの責任は私にある」という受けとめをきちんとしているとは言えないトマスをここに見るのです。

◆ このトマスの姿はヨハネ福音書が書かれた西暦90〜100年頃の教会の人びとの姿を象徴していると見ることが出来ます。ヨハネによる福音書が書かれたこの時期はイエスが死んでから60年ほどがすでに経過しており、生前のイエスや復活のイエスを直接知っている直弟子たちの時代はもう終わっていました。ほとんどの人が生前のイエスを見たことがなく、また復活のイエスも直接体験したことのない人達の時代になっていました。この時の隔たりは、今日の私たちの二千年と比べますとまだわずかな隔たりだとも言えますが、しかし直接イエスに接したり、復活のイエスに直接出会ったことがないという点では、同じ立場に生きる人達がすでにいたということです。そしてヨハネ福音書はそのような世代に属する人々に向けて書かれた福音書です。

◆ トマスはイエスのために死ぬことの出来る人間でありたいと志した人でした。そのように人は思いを高ぶらせることがあります。今までの自分の生き方を改めて、新しくやってみようと思う、そんな決意をし、努力をし始めることがあります。きっかけは何かに感動したり、親しい人の死に出会ったり、常とは違う出来事を体験したときに、自分を振り返り、そして新しく生きようと心を定めてみるのです。たしかに、はじめは張り切ったものとなりますが、しかしだんだんとその決意が薄れ、重荷になってしまうことがあります。

◆ 「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」そう語った時のトマスの気持ちの高ぶりは、皮肉なことにイエスの十字架の死とともにしぼんでしまいました。イエスと一緒に背負おうとした荷を背負えなかった、これは挫折です。その彼に「あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とイエスは語りかけるのです。イエスの手の釘跡、わき腹の穴は苦しみの徴です。そこに指を入れる、手を入れるということは二つの意味があります。ひとつは苦しみに触れるということです。もう一つは、傷は消えないということです。復活したイエスから傷跡は消えていたとは聖書は語っていません。手には釘打たれた傷跡があり、わき腹には槍で刺し抜かれた傷穴がある。それが復活したイエスの姿だったと聖書は語っています。この事が持つ意味を考えるのです。苦しみに触れる時、人の心の中で何かが動く。誰かが自分のために苦しんでいたのだと知ったとき、人は相手に背負ってもらっていた荷の重さに気付き、相手の中に出来ていた傷の深さを知るのです。十字架は罪の赦しのしるしだという。赦されるとは、相手の中に出来た傷が消え去ってしまうことではありません。傷は消えないのです。ただその傷つけた者を責めないで、消えない傷を引き受けてくれる、それが神の差し出す赦しです。

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