SSブログ

2019年10月27日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.10.27 創世記1:1-5/24-31 「創作工房の六日間」      望月修治   
 
◆ 「ソフィーの世界」という本は1991年に出版され、世界で2300万部を売り上げるベストセラーになりました。著者のヨースタイン・ゴルデルはノルウェーの高校の哲学教師です。少年少女への哲学の手ほどきとして読んでもらおうと構想された作品です。「哲学者からの不思議な手紙」という副題がついています。主人公はソフィーというごく普通の14歳の少女です。ある日彼女に不思議な手紙が届きます。その手紙には二つの問いが記されていました。「あなたはだれ?」「世界はどこからきた?」。この二つの問いをめぐって、その後に登場する哲学者とソフィーとの間にさまざまな対話がなされていきます。

◆ 創世記の1章はこの二つの問いへの応答だと言うことができます。1〜5節には、神が天地を創造された時、最初に創り出されたのは光であったと記されています。第1日目の光とは何だったのか。それはこの物語が書かれた時代から見えてくるはずです。天地創造の物語は、古代イスラエルが最も危機的状態にあった「バビロン捕囚」の時期、紀元前6世紀に書かれたものです。捕囚という困難な状況の中で「光はどこにあるのか」という問いに答えようとしたものです。50年にわたる捕囚状態という民族の苦難の中で、神は本当にこの世界と歴史を支配し、導いておられるのかということを問いかけ、絞り出すように神への信仰を告白しているのが1:3-5です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」これは、闇としか言いようのない歴史を神はなお支配しておられるという告白です。その希望を捕囚の地に生きていた人たちは「光」と表現したのです。希望である光、希望を宿す光が最初に造り出されたのだと語りました。時間の一番初め、それは全て存在するものの根源を意味しています。時間軸の一番始まりに物語の舞台を設定することで、この世界の存在する意味、生きることの一番根っこにある意味を語ろうとしたのです。

◆ そのことを創世記1章の物語は24節以下の人間の創造の物語において、より鮮明に描き出していくのです。それは「ソフィーの世界」の「あなたはだれ?」という問いかけに対する聖書からの答えでもあるのです。26節と27節にそれは記されています。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」 まずここでひとつ気になるのは、神が「我々」という一人称複数形で語られていることです。これは「熟慮の複数」だと説明されています。神が複数いるということではなく、神が熟慮をして発する言葉の場合、ヘブライ語では一人称複数形で表現されることがあるというのです。しかし、いずれにせよここで大切なことは、神が自分に「かたどり」「似せて」人を創造したということです。このことは、旧約聖書では決定的に重要なことです。キリスト教の用語として「イマゴ・デイ」という言葉があります。ラテン語で「神の像」という意味なのですが、それはこの創世記1章26節、27節に典拠しているのです。神は人間を「神の像」「神のかたち」あるいは「神の似姿」として造られたというのが聖書の人間理解、人間観の基本です。

◆ では「神の像」「神のかたち」とはどのようなことなのでしょうか。当時の古代オリエント世界に生きていた人々は、世界をこんなふうに考えていました。まず世界は神々が住む天上の世界と人間や動植物が生きている地上の世界がある。天上界に住む神々には序列があってちょうど三角形のように頂点には最高神がいて、以下位の高い神から低い神までランク付けされてピラミッド型の縦構造になっている。そして地上に生きている人間は、天上界の神々の影だと考えられていました。「神のかたち」とは、天上界の最高神の影のことです。つまり地上の王のことであり、それが「神のかたち」「神の像」だとされていたのです。天地創造の物語が書かれたバビロンの捕囚の地において「神のかたち」とは、バビロニアの王のことに他なりません。地上の人間は皆、「神のかたち」である王を頂点としたピラミッド型の縦社会に生きている、それが当時の世界観であり、人間観でした。イスラエルの人々は捕囚の民ですから、このバビロニアの世界ではいわば虫けらのような存在です。王の指先の動き一つで、命を絶たれてしまう存在にすぎませんでした。

◆ そのような世界観が当たり前とされていた時代に、この物語は書かれたのです。人は「神のかたち」なのだと語りました。王が、王だけが「神のかたち」ではなく、人は皆誰もが「神のかたち」なのだと語りました。「神は御自分にかたどって人を創造された」と物語るのです。国家権力の頂点に立つ「王」だけではなく、誰でもすべての人が神のイメージに造られていると語りました。

◆ 加えてもうひとつ大切なことは、人は「男と女に創造された」と語られていることです。それは、神がひとりひとりの人間を、それぞれ違いを持つ存在として造ったということを意味しています。男しかいない人間ではなく、女しかいない人間でもなく、男と女が向き合って生きるところに成り立つのが人間です。人は他の誰かと関わり合ってこそ力を発揮出来ることを「男と女」という表現は象徴的に示しています。そして人間が皆、違いをもって存在していることを「神は祝福した」と28節に記されています。人間が違いを生かし合って生きることを大切にし、互いに対等な存在として一緒に生きる。それが神に祝福された生き方であり、「神のかたち」として生きることの中身です。「神のかたち」とは神の「そっくりさん」という意味ではありません。人間は神に向き合うことで深く生かされる存在であること、そしてその神とのつながりを具体的に体験するのは、他者とつながり合い、自分以外の誰かとさまざまな関係を結んで生きる時においてなのです。そのことを語る創世記の物語は、古代世界の人権宣言です。しかし人間は違っていることに対して必ずしも優しく、あたたかであるわけではありません。むしろ違いを理由に排除や差別が起こってしまうのが私たちの現実です。

◆ 神は古代のオリエント世界で辺境の地に暮らす小さな民を選び出し、自らの意志を顕わされました。イエスはそのパレスチナの中で都の人々からは「あんな地方で」とさげすまれたガリラヤで育ち、その地方の人々が語っていたアラム語でその地に住む人たちに神の働きを語り続けました。借りてきた言葉ではなく、すました言葉でもなく、ガリラヤの人々がいつも話している方言交じりのアラム語だからこそ、イエスの話は人々の心に届き、貧しかった人々、罪人だとレッテルを貼られていた人たちに「あなたも神のかたち」に神がつくられた存在なのだということが本当によく分かったのだと思うのです。神は人をそれぞれ異なった状況の中に生み出し、生かそうとされます。その命の基本を踏まえること、違っていることこそ豊かさなのだということ、それこそが、神が人間を御自分にかたどって創造されたことの意味なのだと思います。この条件を大切に受けとめ生きるということは、今のわたしたちにとってどう生きることなのか、それを考え合い、語り合いたいと思うのです。

2019年11月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年11月10日(日)午前10時30分
降誕前第7主日
説 教:「さらば故郷」
    牧師 望月修治
聖 書:創世記12章1〜9節
招 詞 : ローマの信徒への手紙4章23~25節
交読詩編:105;1〜11
讃美歌:26,57,505,462,91(1番)
◎礼拝場所:静和館4階ホール
◎女子大構内での車の駐車はできません。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。