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2021年3月28日(日)説教要旨  [説教要旨]

説教要旨2021.3.28 マタイによる福音書27:32-56 「百人隊長の告白」 望月修治

◆ 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」イエスが十字架上で、最後に大声で叫んだ言葉です。その半日ほど前、肩に食い込むほどに重い、ほどなく自分が磔にされる十字架を背負わされて、イエスは歩いていました。イエスが運んだのは十字架の横木だけで、縦木はすでに、処刑される場所に準備してあった、と考えられています。たどりついたのは「されこうべの場所」の異名をとる、ゴルゴタの丘でした。ここでイエスは最期をむかえることになります。

◆ イエスを十字架につけると兵士たちは、まずイエスにぶどう酒を飲ませようとします。しかしイエスは飲みません。34節に「(兵士たちは)苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」とマタイは記しています。苦いものとは胆汁のことです。ぶどう酒に胆汁を混ぜることで麻酔薬になります。しかしイエスはそれを摂ろうとはしません。その姿は、あたかも痛みと苦しみをその身に受けることが自らの役割なのだと語っているように映ります。

◆ マルコ福音書によれば、イエスが十字架につけられたのは午前9時でした。(マルコ15:25)罪状書きには「これはユダヤ人の王である」と記されていました。十字架につけられたイエスの横には左右一人ずつ強盗が、同じく十字架刑の処せられていました、無力なイエスの姿を見て、人々は罵声を浴びせます。神殿を壊して三日で建て直すといった者が、我が身を救うことすらできないではないか。十字架から降りてくるがよい、そうすればお前の言葉を信じるだろうとさえ言って、イエスを嘲りました。マルコ福音書は十字架の周りにいた人々だけではなく、イエスと共に十字架につけられていた者たちもイエスをののしったと記しています。正午になり、全地は暗くなり、それが3時まで続いたとマタイは伝えています。ルカは「太陽は光を失った」と記しています。太陽が消えたことはイエスの死を連想させます。太陽が見えなくなった、しかしそれは太陽が失われたことと違います。見えないことと存在しないことは根本的に異なります。神が見えないことと神が存在しないこととはまったく別なことです。そのことを聖書はイエスの最後の場面でも明確に示すのです。そしてその意味は実は深いのです。

◆ その闇の中でイエスが叫んだのが最初にお伝えした言葉です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」イエスが叫ぶのを聞いて、ある人はイエスが預言者エリヤを呼んでいると言いました。「エリ、エリ」という声がエリヤを呼んでいる声に聞こえたのです。またある人は、薬草を混ぜたぶどう酒を海綿に含ませて、葦の棒の先にくくりつけて、イエスに飲ませようとしました。苦痛を少しでも和らげることができたらと思ったのです。しかしまた別の者は、、何か珍しものでも見るように「待て、エリヤが救いに来るかどうか見ていよう」と語ったとあります。エリヤは紀元前800年代中頃、分裂王国時代の北王国で活動した預言者です。カルメル山で異教の神バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と対決し、天から火を落として、祭壇に生贄を焼き尽くしたと語り伝えられています。神の介入をイエスは願ってエリヤを呼んだのだと思ったのです。しかしエリヤは現れません。ほどなくしてイエスは再び大きな声をあげて、息を引き取りました。十字架にかけられた激しい苦痛の中で、イエスが神に「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大きな声で叫ぶ。誰にも聞こえないようにではなく、大きな声で誰はばかることなく「なぜ見捨てたのか」と叫ぶ、このイエスの一言は、神への深い信頼があれば、すべての悲痛を甘んじて受け入れることができるはずだという、ほとんど空想のような思い込み、人間の抱く妄念を打ち砕くのです。

◆ なぜイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と十字架の上で叫んだのか、そして神への不信とも受け取れる姿を晒したのか、なぜ福音書記者たちはこのような救い主の姿を語り伝えたのか。その意味を解き明かさなければなりません。この言葉を聞いて疑問に思うのです。なぜならイエスはこれまでに3度も自らの死と復活を語ってきているからです。「自分はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」(16:21)と弟子たちに語ってきました。だとすれば覚悟はできていたのではないのか。分かっていたことではなかったのか。それなのにです、イエスは神に「なぜわたしを見捨てたのか」と叫ぶのです。自分ことは棚に上げて申しますが、「がっかりくる」と思ってしまうところがないでしょうか。私たちがイメージする救い主らしく、すべてを引き受けて叫び声など上げずに、午後3時を迎えてほしかったと思うことはないでしょうか。

◆ しかしその一方で思うのです。もし、ここでイエスが荒々しいまでに呻吟することなく、苦しみ呻くことなく逝ったとしたら、その福音は今日のように広まることはなかったのではないか。立派すぎるイエスはどこか遠い存在になってしまうのではないか。「なぜわたしを見捨てたのか」と大声で叫ぶイエスだからこそ、共感できるのではないのか。イエスも自分と同じなのだと安堵するのではないか。自分も叫んでいいのだと納得するのではないか。そしてほっと一息をつく自分がそこに確かにいると思えるのです。

◆ そこに思い至った時、見えてくるものがありました。神を絶対的に信頼することと十字架の耐えがたい苦痛による呪いのような呻きとは矛盾しないのではないかということです。「なぜわたしをお見捨てになったのか」と叫ぶイエスは神を疑っているのではなく、むしろ神がすべてを受け入れることを知るからこそ、大地をつんざくような声で叫んだのです。「わたしはしんどいです、苦しいです、たまらなく辛いです」と誰はばかることなく叫ぶのです。人は苦しみ悶えるとき、どこかでそれを受け止める者がいてくれることを願うのです。消し去るのではなく、聞いてもらえることを求めるのです。聞いてもらえたら、人はその荷を担って顔を上げるのです。イエスはその相手が確実に存在していることを十字架の上で示したのです。深みから湧き起こる呻きは神に確実に聞き届けられる祈りなのです。

◆ そのことを証言しているのは百人隊長です。彼は十字架の上で、大声で神に叫び息たえてイエスを見て言ったのです。「本当に、この人は神の子だった。」この信仰告白を語ったのはイエスの弟子たちではありませんでした。弟子ではなく、イエスを裁き、磔にした異邦人によって語られたのです。百人隊長の告白を読みながら、パウロのことに思いが巡りました。熱心なユダヤ教徒として教会の迫害者であったパウロはキリストとは遠く離れていた人です。その彼が、ダマスコへ教会弾圧のために向かっていたとき、復活のイエスと出会うという体験をし、そこから180度生き方を変えられました。「本当にこの人は神の子であった」ということの深い意味を知ったからです。

◆ 来週、わたしたちはイースターを迎えます。復活の朝です。旅立ちの時を迎えます。旅立つ道は違うかも知れません。でもどこかでまた出会いたいと思います。そのことを願うことができる繋がりが与えられてきたことを感謝しています。

2021年4月11日(日)主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2021年4月11日(日)
復活節第2主日
説 教:「番兵たちの報告」
    牧師 望月修治

聖 書:マタイによる福音書18章11〜15節
招 詞:イザヤ書65章17〜18節
讃美歌:19(1節), 333(1節・4節), 329(1節・2節・5節), 91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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