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2016年12月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年12月11日(日)午前10時30分
降誕前第2主日
説 教:「その名は“不思議”と言う」   
牧師 望月修治
聖 書:士師記13章2-18節
招 詞:フィリピの信徒への手紙
4章6-7節
交読詩編:113
讃美歌:26、152、240、236、91(1番)
◎礼拝場所:静和館4階ホール

2016年12月4日(日)の説教概要 [主日礼拝のご案内]

説教要旨2016.12.4 イザヤ書59:12-20「神の装い」       望月修治           

◆ 先週日曜日からアドベントに入りました。イエスの誕生物語を記したマタイとルカ、この二人の福音書記者は旧約聖書の言葉を効果的に引用して物語を記しています。旧約聖書から新約聖書への引用箇所の約4分の1はイザヤ書からのものです。初代の教会において、イエスの生涯の意味を解き明かしていく上で、イザヤ書に記された預言の言葉は大事な位置を占めていたのです。

◆ イザヤ書の56−66章は第三イザヤと呼ばれています。バビロン捕囚が終わった紀元前538年以降に書かれたものです。一人ではなく複数の者によって書かれたと考えられています。
 第三イザヤの箇所には重要な内容が含まれています。聖書における神理解、聖書の神はどのような神であるのか、その一つの到達点が示されているからです。いくつか記されているのですが、その中の一つは57章15節です。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」この箇所はイスラエルの神はどのような神なのかを二つの点で確認しています。

◆ まず「神は高く、聖なる所に住む」ということです。バビロンの捕囚が起こるまでのエルサレムには、紀元前10世紀にソロモン王の時代に建てられた神殿が壮大な姿を誇っていました。イスラエルでは、いつの頃からか、この神殿に神がいて、自分たち民族と国とを守ってくれる「守護神」のように考えるようになっていました。けれどもそれは誤解であることを、人々はバビロン捕囚によって痛いほど思い知らされたのです。神殿は崩壊し、エルサレムは跡形もないほどに破壊し尽くされてしまいました。ですから、神殿に神はいつもおられて自分たちを守って下さっているのだという理解は違っていたのです。しかしそれでも捕囚の民は、50年にわたる捕囚から解放されて、破壊された神殿に立ったとき、もう一度神殿を再建しようとするのです。その同胞たちに向かって第三イザヤは、神は高きにおられるのであって、人間の手によって地上に作られたものに縛られない方であるのだと強く言い聞かせるのです。

◆ その時にもう一つ大切なことを語ります。高きにいます神はしかし遠く手の届かないところにいるのではないと告げるのです。「打ち砕かれ、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」。神は人間が造った神殿などに住まわれる方でないのだけれど、しかし高みに自らを置くのではなく、この地上で打ち砕かれ、あえいでいる人間に目を留め、関わるのだとこの預言者は語りかけました。

◆ 今日読んでいる59章12節以下には、神が目を留め、関わろうとする人間の現実が赤裸々に語られています。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く、背きの罪はわたしたちと共にある」「主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱いた」とあります。第三イザヤはここで大変興味深いことを語っているのです。「主に対して偽り背いている」その自分の咎をわたしたちは知っていると告白しているのです。その人間を、贖う者として神は働かれるのだと第三イザヤは人々に語るのです。そして17節で「主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた」という表現で、「贖う者としての神の装い」を語るのです。

◆ 人間に対する神のこのような関わり方を、森有正は「どうしても人に知らせることのできないある心の一隅」において人間に出会う神と表現しました。人はどうしても人に知らせることの出来ない心の一隅を持っています。醜い考えがありますし、また秘密の思いもある。密かな欲望があり、恥もある。そういう他人に知らせることの出来ない心の一隅でしか神と出会う場所は人間にはない。誰はばかることなくしゃべることの出来る観念や思想や道徳、そういうところで人間はだれも神に出会うことは出来ない。人にも言えず親にも言えず、教師にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神に出会うことは出来ないと森有正は語りました。第三イザヤが言う「打ち砕かれ、へりくだった心」とは、私たちが他の人に知らせることの出来ない「ある心の一隅」であり、そこでしか神に出会うことが出来ない場所なのだと言えるのです。

◆ ただし私たちが生きている現実と神の言葉との間には食い違いがあります。福音書のクリスマスの物語にもその食い違いが物語られています。占星術の学者たちは、救い主は王の宮殿に生まれたのだろうと信じてエルサレムにやってきましたが、実際は名もない小さな町ベツレヘムの、それも家畜小屋の中でイエスは生まれました。現実と預言、現実と神の言葉とのギャップ、それはどこから来るのか、どこでそのことを感じるのか。私たちが目の前にしている現実に対して自分という存在が持っている力の小ささ、現実の大きさに対して向かわなければならない自分の存在の小ささ、弱さ、そのあまりの違いに私たちはうめくのです。神殿も大事、信仰も大事だけれども、しかにこの現実をどうしてくれるのだ。この自分がこの大きな現実に対していったい何ができるのだ。神は働けと言うけれど、しかし現実はこうではないか、そう私たちは自分に言って、そして神殿も大事だけれど、信仰も大事だけれど、でも私は今自分の生活が大事ですというふうに自分の生き方を振ってしまう。それに対して第三イザヤは「起きよ、光を放て。あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる」(60:1-2)と言うのです。しかしどうしたら私たちは「主の栄光があなたの上に現れる」ということを味わい知ることができるというのでしょうか。

◆ このギャップを埋めるために、イエスは生きました。今全世界にたくさんの信ずる人を有しているキリスト教という宗教は、はじめからたくさんいたわけではなくて、たったひとりナザレのイエスから始まったのです。そのことを小さいと嘆いてしまったら、そんな小さな存在がこの闇の現実に何が出来るのか、出来はしないと言ってしまったら、何もそこには起こらなかったのです。でもイエスは歩いたのです。「見よ闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」その現実に対してイエスはたったひとりで歩み始めたのです。歩み出したら「主が輝き出で、主の栄光が現れる」という神の働きに託してイエスは歩んだのです。

◆ 「起きよ、光を放て」その光は私たち自身が輝くのではなくて、起きて歩み出した時に「主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる」それが光を放つということです。
 シュヴァーンエッケという人の書いた短い詩をご紹介します。
アドヴェント  F. シュヴァーンエッケ
「人々は空を見上げて/待っている/あそこから来る人を
 でも空からは/来はしない/見上げていても無駄なのだ
 そうしているうちにあの人は/人々の背後から/いらっしゃるのだ」
思いもかけない形で人の気づかぬ背後から「主の栄光が現れる」のです。

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