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2022年11月27日(日)の説教要旨 [説教要旨]

エレミヤ書33章14〜16節 「備えられた希望」 大垣 友行

★ 本日から待降節、アドベントに入りました。心の内にイエスをお迎えする準備を整えるこの時に、わたしたちに「待つ」ことを伝えようとする、預言者エレミヤの言葉に耳を傾けたいと思います。

★ エレミヤの活動は、多分に当時の政治情勢からの影響を受けたものでした。エレミヤは、ユダヤ人の国家である南ユダ王国の一地方の、祭司の家庭に生まれました。当時、ユダ王国はエジプトの影響に悩まされており、エレミヤが活躍する少し前の時期には、ヨシヤという王がいました。ヨシヤは、エルサレムの神殿から発見された「律法の書」、これは現在の申命記の主要部分に当たるものと考えられていますが、この律法に基づく徹底的な宗教改革を行った人物として知られております。この改革は、当時ユダ王国の各所にあった聖所が、バアルを崇拝する宗教の影響を受けて、イスラエルの神ヤハウェへの信仰を失いつつあったことを危惧し、地方の聖所を廃止し、エルサレム神殿への集権化を図ったものでした。そして、その信仰のあり方も、律法を基礎とする厳格なものに整えられていきます。この改革が、エレミヤにも影響を及ぼすのですが、エレミヤはそこに律法主義の影を認めて、独自の歩みを進めることになります。

★ このヨシヤが、時の大国エジプトと対立し、メギドの丘と呼ばれるところでエジプト軍と衝突し、戦死します。その結果として、ユダ王国はエジプトの立てた王が治めることとなり、ヨシヤの宗教改革も失速して行きます。さらに、当時勃興しつつあったバビロンが、エジプトとアッシリアの連合軍を破り、ユダ王国もバビロンに朝貢することになります。しかし、やがてバビロンに背いて、傀儡の王様は廃位されてバビロンに連行され、第一回のバビロン捕囚の憂き目を見ることになります。やがて、ユダ最後の王、ゼデキヤが立てられますが、彼もエジプトとバビロンとの間で揺れ、エジプトに唆されてバビロンに背き、ついにエルサレムはバビロンに攻め落とされて、第二回のバビロン捕囚に至り、ユダ王国は滅亡し、その後二千数百年に亘って、ユダヤ人は国家的独立を失うことになってしまうのであります。

★ まさにこのような破局を迎えようとしていた時に語られたのが、エレミヤの言葉でした。彼は政治的な情勢をクリアに見通していて、バビロンにつくべきことを熱心に訴えましたが、その言葉は聞かれず、イスラエルの民は独立を失い、遠いバビロンの地で捕囚となる運命を辿ったのでした。しかし、そのような中でエレミヤは、エルサレムの回復についての預言を語ることになります。本日の聖書箇所、33章の14節から16節には、まさにそのことが記されています。

★ 実はこの部分は、同じエレミヤ書の23章の5節から6節にある預言と、ほぼ同じ内容になっています。引用してみますと、「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる」となっております。実際に、ほぼ同じ言葉遣いがなされていますが、違っているところがあります。それは、「主は我らの救い」という名で呼ばれるものが何なのか、ということです。聖書日課が指定している箇所では、この名で呼ばれるのはエルサレムの都になっています。ですが、今の23章5節から6節のところでは、ユダの国を治める王を指しています。むしろ、わたしたちは、キリスト教的には、この23章の記述から、イエス・キリストに思い至るはずです。ある注解書によれば、33章の記述は捕囚後の時代になって追記されたものであって、エレミヤ自身の言葉ではなく、彼自身が置いた重点をずらす結果になっているとも考えられるようです。とは言え、この部分からも、わたしたちは受け取るものがあるはずです。同じようなことが二度繰り返されているのは、エルサレムを回復するという、神様の約束が再確認され、一層堅いものとされていると言うこともできます。こうしてエレミヤは、辛酸を舐めることになった同時代人のために、希望に満ちた神様の言葉を語るという役目を与えられたのです。

★ しかし、すでに申し上げました通り、ユダの人々は二度までもバビロンに背いて、滅亡する道を辿ることになりました。また、その後、気が遠くなるほどの長い時間、国家的独立を失ってしまいました。イスラエルの建国ということで、このエレミヤの預言は成就したと考えることも出来るかと思いますが、それだけの長い時の間には、大変な苦難があったことは想像に難くありません。ヘブライの民をエジプトから導き出し、約束の地を目指して彼らを率いたモーセが、ついにカナンの地に足を踏み入れることができなかったということを思い出しますが、エルサレムの回復を夢見て倒れた人々がいたこと、その心境はどのようなものだったでしょうか。そのことを思う時に、「待つ」ことの大変さに気付かされます。

★ここで再び、エレミヤの言葉に戻りたいと思います。救いの出来事を待つための作法に注目して、エレミヤ書の29章から始まる、いわゆる「エレミヤの手紙」とされる部分を見て行きたいと思います。そこでエレミヤは、捕囚となった人々に対して、次のようなメッセージを伝えようとしています。4節にありますが、そもそも捕囚の出来事が、神様のご計画であったことが語られます。「エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる」とあります。告げられたことは、そこで「家を建てて住み」、また家族を得て「人口を増や」すことです。そしてさらに、10節からですが、「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」と記されています。「心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」という記述もあります。

★ つまり、恵みの約束が果たされるまでの間、ただ待っているのではなくて、その「待つ」ということには苦難が伴うのだということです。希望と苦難がセットになっているわけです。このように耐えて待つという仕方が、約束が叶えられる時を待つ待ち方なのだと示されています。それには、個々人がそれぞれの仕方で、それぞれの苦難を引き受けていくのだということも含まれているでしょう。

★ アドベントという毎年の習慣は、恵みの約束、備えられた希望と、それを待つ待ち方を忘れないように、心を整える期間ということができます。わたしたちも、今迎えているこの時を、希望へと心を向ける機会として、受け止めていきたいと願います。

2022年12月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年12月11日(日)午前10時30分
降誕前第2主日・待降節第3主日
於:同志社礼拝堂
説 教:「沈黙から讃美へ」
               牧師 菅根信彦
聖 書:ルカによる福音書1章5〜25節
招 詞:マルコによる福音書1章15節
讃美歌:24,241(1・3節),230(1・3節),430(1・2・3節),91(1節)
    ※下線部は聖歌隊による賛美です。

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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