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2020年3月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

2020年4月12日の礼拝は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止します。

ヨハネによる福音書12:20-36 「麦の道・人の子の道」   望月修治     

◆ 過越の祭りの6日前、イエスはエルサレムから数キロ離れたベタニアに到着し、そこで一晩を過ごして、翌日エルサレムに上りました。各地から大勢の人々が過越の祭りを祝うためにエルサレムにやって来ていました。町はおそらく人で溢れかえり、土埃も舞っていたことだろうと思います。各地からやって来た大勢の人々の中に何人かのギリシア人がいました。当時ギリシア人とユダヤ人の関係は大変悪かったようです。イエスが伝道活動を開始する少し前のことです。エジプトのアレキサンドアリアという大都市で、ギリシア人がユダヤ人を虐殺するという事件が起こりました。ユダヤ人迫害のはしりと考えられる出来事です。ユダヤ人たちのギリシア人に対する感情はささくれだっていたようです。そのような状況の中で、ギリシア人がエルサレムにやって来ました。しかもエルサレムの人口が膨れ上がっている過越の祭りの時ですから、滞在するだけでも勇気のいることであったと思います。

◆ 彼らはイエスの弟子の一人であったフィリポに「お願いです。イエスにお目にかかりたいのですが」と願い出ました。手続きをとらないとイエスに会えないわけでもありません。まっすぐイエスのもとに行って「お会いしたかったのです」と言っても差し支えなかったはずです。ギリシア人の自分たちが直接イエスに声をかけてもよいのかと遠慮し、取り次ぎを願ったのだと思います。彼らの申し出を受けて、フィリポは丁寧な手続きをとります、いきなりイエスのところに行かないで、仲間のアンデレに、こういう話があるのだがどうだろうかと尋ねています。そしてアンデレの同意を得て、二人でイエスのところに行ってギリシア人たちがお会いしたいと言っていますと伝えました。

◆ ここはさりげなく読み進んでしまいそうな場面なのですが、福音書記者のヨハネは実はここに大事な思いを込めているのではないかと思いました。イエスの最後の1週間が始まっている時に、わざわざギリシア人を登場させているからです。加えてフィリポとアンデレという二人の弟子を介在させるという、少し回りくどいことをしているからです。新約聖書では、ギリシア人という言葉はしばしば「ユダヤ人以外の外国人すべて」すなわち「異邦人」のことを意味する場合があります。そのことが重要なのだと思うのです。それはこの先、福音が宣べ伝えられていく先は、ユダヤに留まるのではなく、そのもっと先の多くの異邦人たち、彼らが生きている大きな世界なのだということを先取りして伝えたかったのはないでしょうか。そして異邦人にイエスのことを取り継ぐ役割を弟子たちは十字架の出来事を経て担っていくのだということをふたりの弟子を介在させることでヨハネは語りたいのです。

◆ 何人かのギリシア人がお目にかかりたいと言って来ている。このことを伝え聞いたイエスがそれに呼応するかのように、あのよく知られた言葉を語るのです。イエスが救い主として担う役割、務めは何かを語るあの言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ユダヤという枠を遥かに超えて、異邦人たちに、世界の多くの人たちに、あらゆる人たちに、この言葉は神から届けられるのだということ、それがヨハネの理解です。

◆ イエスは、十字架に架けられることを事前に人々に語った人でした。4つの福音書の中で最初に書かれたマルコによる福音書、そしてそのマルコ福音書を基礎資料として書かれたマタイによる福音書とルカによる福音書、この三つの福音書にはイエスが、自分が十字架にかけられて殺されること、しかし3日目に復活させられることを三度にわたって弟子たちに語ったことが記されています。人間にとって失うことの最も大きいものはいのちです。そのいのちを失うこと、自らの死を覚悟してそれを人に語ることは覚悟のいることです。しかも尋常な死ではなく、多くの苦しみを受け、排斥され、侮辱され、殺される、そのような死を自分が受けねばならないのだとイエスは語りました。聖書は十字架の出来事が迫る中で、苦しみ、祈るイエスの姿を隠さずに語っています。

◆ ところがヨハネによる福音書にはそのような形で、イエスが十字架の出来事を語ったとは記されていないのです。別の表現でイエスは自らの死について語っています。それがこの言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 一粒の麦は、そのまま、とって置かれたなら一粒のままにとどまります。しかし蒔かれて地に落ちると、この一粒の麦自体は死ぬけれども、ここから芽が出て多くの実を結ぶようになる。麦を素材にしたこの例え話は誰もが納得する話です。この譬はイエスが十字架に掛けられ処刑されることを暗示しています。聖書は十字架にかけられたひとりの人の死にこだわり続けます。十字架に死んだその意味を問い続け、語り続けます。イエスの十字架の死をあくまで踏まえて、愛を語り、恵みを語り、平安と慰めを語り、平和を語るのです。ひとりの人の命、ひとりの人の死、そのことが大事なのです。人類とか民族とか国民といったくくり方ではなく、今ここに生きるひとり、わたしが出会っているひとり、名前をもって呼びかけているかけがえのないひとりの人間の命、かけがえのないひとりの人間の死が大事なのです。今、一緒に生きている人との関わりという具体性において、命の重さは身にしみるのです。

◆ 固有なひとりの人との関わりの中で、命の重さを味わい知り、またそのかけがえのなさと出会うのです。「1粒の麦は、地に落ちて死ななければ、1粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」このイエスの言葉の奥深さに気付かされて行くのです。私たちは誰かの死に支えられてここに存在し、今を生きているのです。誰かが一粒のままであることをやめて、私に何かを差し出すべくその殻を破ってくれた、そのような命のつながりがあって私は今を生き、命の実を結ぶことが出来ているのです。

◆ 私たちは自分が生きようとする意志とは全く別の力や働きがそれぞれの命の上に及んでいるということを実感させられる時があります。生きているという表現だけでは捉えきれない、いのちの営みがあること。生かされている存在としての自分を自覚させられます。ひとつのいのち、ひとりのいのちが「生かされているいのち」として存在すると言い切ることが出来るとすれば、それは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」というもう一つの命の営みがあるからだと聖書は言うのです。

◆ あらゆるものには、それを生み出す源があります。それが全存在の意味を根底から支えています。生み出す側の望みがなければどのような命も生まれてくるはずはないのです。「生まれた」ということはイコール存在することを「望まれた」ということです。人は望まれて生まれてくるのです。誰一人自ら望んで生まれてきた人はいません。しかし、誰一人望まれずに生まれてきた人もいないはずです。望まれるというのは単に親の望みということではなく、この世界のいちばん根源にある望み、神がそう望まれたからこそ命は存在するのだということです。そしておそらくそれだけが、存在の意味です。すべての人間が、「神に望まれた」という出発点をもっているのです。私たちが存在する、その意味について私たちがあれこれと悩む必要はないのです。意味を与えるのは生み出す側だからです。私たちがすべきことは、誰もが「神に望まれた命」という出発点をもっていることを、自分の隣人が、いま出会っている人が、そしてこれから出会っていくであろう人たちが気づくように祈ることです。

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