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2017年10月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.10.29  創世記2:4b-9/15-25「〝共に!〟—人間の条件−」  望月修治   

◆ 旧約聖書の最初に記された創世記の物語を読んでいますと、古代世界に生きた人々の感性の深さが伝わってくるのを感じます。古代の人々は、食べることのために労苦する生活の只中で、日々接している自然の計り知れない大きさや深さに触れる時を多くもちました。その中で、人はどこから来てどこへ行くのか、人間のいのちについて思いめぐらしたのだと思います。そして人々は神をたずね求め、神に出会い、あるいは自分が体験した出来事を神との出会いだと理解して、神の物語を語り合い、次の世代に伝えていきました。聖書の民だけではなく、世界中の民族に伝わるさまざまな創造神話は、古代世界に生きた人々が思い巡らした神への思い、人間への思いを伝えてくれます。

◆ 聖書には、創世記1章と2章に二つの創造物語が続けて記されています。創世記を編集した人たちは、天地創造を巡る伝承の中から二つの物語を選び出しました。1章の物語は神が6日間かけてこの世界、そしてそこに存在する万物を創り出し、7日目に休まれたという物語です。この物語は紀元前5世紀頃のバビロン捕囚の頃に編集されました。もうひとつの創造物語は2章です。エデンの園の物語として知られています。この物語は、1章の物語より400年程前、紀元前9世紀に編集されました。イスラエルが初めて王国を作って繁栄を謳歌したダビデ王朝の時代です。 

◆ 異なった時代に書かれた物語を、創世記の編集者たちは時代的には後で書かかれた物語を一番前に配置するという仕方で編集しました。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という書き出しで始まる荘厳で未来に大きく開かれた語り方が、聖書の冒頭にふさわしいと考えたのだろうと思います。語り方の違う二つの物語を並べると、創造の方法や順序に齟齬が起きてしまいます。それでも編集者たちは、二つの物語を続けて語る方が、神によるこの世への関わり方、この世界に存在している命の根本的な意味、そしてまた生きることのあるべき姿と意味を、適切にまた奥深く表現できると考えたのです。

◆ 創世記2章の創造物語には、土の塵で人を形づくる神が描かれています。1章では、神は「人(アダム)」を最初から「男と女」に創ったと記されています。しかし2章では、人ははじめ男でも女でもなく、土の塵で形どられ、神がその鼻に命の息を吹き入れることで「生きる者」になったと記されています。その後で神は、人がひとりでいるのは良くないと思い、「人に合う助ける者」とするべく、あらゆる動物を造ります。「良くない」というのは本来の目的に適っていないという意味です。しかし動物たちの中にふさわしい相手は見出せなかったので、神は人のあばら骨からもう一人の人を造ります。

◆ 1章の物語では、万物の創造の完成として最後に人間が創造されています。一方2章では、女性が万物の創造の完成として最後に創造されたという重要な位置を占めています。創世記1章と2章にそれぞれ記されている創造物語には、人の世で当然のごとく受け止められている「早いもの勝ち」とは異なる価値観が反映されていることが分かります。聖書の天地創造物語は、時間の一番初めという時点に物語の舞台を設定することによって、私たちの生きている世界に与えられている根源的な意味を語ろうとしたのです。

◆ では、人間という存在の一番基本となるあり方、生き方とは何か。それは18節に記されています。「主なる神はいわれた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」。これが命あるものの生き方の基本として聖書が示すものです。「彼に合う助ける者」という表現は、旧約聖書でこの2章の18節と20節の2回しか用いられていません。原語のヘブライ語では「エーゼル・ケネグドー」という言葉が使われています。「エーゼル」という言葉は「助け手、同伴者、連れ、相棒、仲間」という意味です。聖書の中では、神が人間に同伴し、助け手として働くことを語る言葉として使われています。それから「ケネグドー」は「向かい合う」という意味です。

◆ 2章の物語によれば、神は「人に合う助ける者」とするべく、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を造り、人はそれらに名をつけて呼びかけたけれど「自分に合う助ける者」をその中に見つけることはできなかったというのです。そこで神は人を深い眠りに落とし、あばら骨の一部を抜き取って「ひとりの女性」を造りました。そしてこのもうひとりの人、ひとりの女性が、人にとって「自分に合う助ける者」であったというのです。「自分に合う助ける者」とは、例えば人が土を耕す時の手助けということではありません。人が生きて行くために利用する「手段」や「道具」を意味しているのでもありません。「自分に合う助ける者」とは、二人が互いに向かい合う対等な関係で共に生きることを言います。

◆ 聖書の物語はこの二人を男と女として語りますが、これは人が一人一人違っていることを象徴的に語った表現です。さまざまな違いをもつ人間が出会い「共に」歩む、それが生きることの基本だと創世記の物語は宣言しています。人が豊かに生きるには、自分のことをほんとうに分かってくれる人が必要です。そして人はそういう出会いをもって生きるときに、そのつながりを通して生きる意味や存在する価値を見出すことができる、そのように造られているのだということも、2章の物語は語っているのです。人は「自分に合う助ける者」を必要とするように本来造られている、ということを明らかにしています。自分以外の誰かと共に生きることは人間存在の本質に属することであり、人間は交わりに向けて造られているというのが聖書の創造物語のメインテーマです。

◆ もうひとつ、創世記に記された二つの創造物語を読んで考えさせられたことがあります。それはこの二つの創造物語の結びの部分です、1章の物語は、6日間かかって万物を造り出した神が7日目に休息したということで締めくくられています。また2章の物語では、「人と女とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」という言葉で結ばれており、異なった二人が共にいて恥ずかしくない安心と喜びを描いて物語を終えています。どんなに重要な仕事であっても、ひとときその仕事を離れて休息の時をもつことは、私たちが神によって命を与えられ、その命は他者と共に歩むことによって、「命の息」を吹き込まれ「生きる者」となることを思いめぐらす上で、欠かせないことなのです。休息の時は、新しい生気を生み出す「リ・クリエイション」(再創造)の時です。

◆ 休息を大切にしない仕事漬けの人生が当たり前の社会は、人々の生活をおびやかし踏みにじります。非正規雇用が常態化し、「弱者」を踏みにじる格差社会は、結局は多くの人々の生活の質を脅かす社会になります。人は神のいのちの息が枯渇し魂が置き去られてしまうことのないように、再創造のときとしての休息の時をもって神の働きを思いめぐらすことが必要なのです。一週間の歩みを終えて、新たな週の始まりの日を安息の日として自覚的に迎える、そのリズムを人生の習慣とすることの意味は深いのです。わたしたちは、だれも独りでは生きることはできません。人は育児から、食事、労働、教育、介護、看取りまで、それらを人は常にだれかに頼り、また頼られながら、日々の命を営んでいます。だから「共に」と聖書は語るのです。しかしそれは、四六時中一緒にということとは違います。いざという時に、誰かに支えられ、また誰かを支えるという仕組みにいつでも身を預ける信頼を持ち、準備ができていることを意味しています。信仰を抱いて生きるとは、いざという時に神に身を預ける準備を整えて生きることなのです。

2017年11月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年11月12日(日)午前10時30分
降誕前第7主日
説 教:「跡を継ぐ者は誰」
牧師 望月修治
聖 書:創世記15章1-20節
招 詞:ヤコブの手紙2章21-23節
交読詩編:105;1-11
讃美歌:27,83,403,409,91(1番)

※礼拝場所:静和館4階ホール

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